2000年に71歳で亡くなった父は、特攻隊の生き残りだった。戦争のことはあまり語らなかったが、訪ねてきた友人と酒を飲むと、しみじみ「いやな時代だった」と漏らした

 ▼父は旧制中学校3年修了時の1943(昭和18)年春、戦闘機の操縦士を目指し、志願して海軍飛行予科練習生(予科練)になった。若干15歳。父の話をつなぎ合わせると、愛媛県の松山航空隊に入隊、後に中国の上海飛行練習隊に行って訓練を重ね、45(昭和20)年、本土決戦に備えて九州の基地に戻ってきたという

 ▼上海でのことは「訓練中、2回墜落し、一緒に乗っていた仲間は大けがをした」ぐらいで、ほとんど話さなかった。代わりに「お国のためにと教えられ、軍隊に志願しなければならない気持ちにさせられた。教育は何より大事だ」としきりに言っていた

 ▼出撃直前の8月15日に終戦、命を落とさずにすんだ。この時、17歳。基地では「米軍が来て特攻隊員は全員ローラーでひき殺す」とのデマが流れた。自暴自棄になり、毎日泥酔するまで酒を飲んだという

 ▼きょうは長崎原爆の日。広島と長崎に落ちた原爆が終戦を早めた側面があり、結果として父は命拾いした。毎年、原爆の日が巡ってくると複雑な思いだ。