■半島全域に路線拡大

 東海自動車(伊東市渚町、石井文弥社長)は15日、会社創立丸100年を迎える。大正、昭和、平成と激動の1世紀を地域に密着し歩んできた。観光地として発展した伊豆の歴史と重なる同社の足跡について、石井社長に伊豆新聞本社の田中実社長が聞いた。

 田中 東海自動車は2月15日で会社創立100年を迎えますが、創業時のことを聞かせてください。

 石井 1917(大正6)年2月15日、東海自動車株式会社は当初「伊東自動車株式会社」として、有志14人によって伊東―大仁間に乗合自動車営業認可申請し、資本金1万2千円で設立されました。保有する車両は定員5人のビュウイック4台で、伊東−冷川峠−大仁、大仁−修善寺、伊東−宇佐美の3路線の運行からスタートしました。当時、伊東−大仁の運賃が2円でしたが、もりそば1杯5銭と言われていましたから、その40倍のバス運賃がいかに高い乗り物であったかがうかがえると思います。創業以来、事業は順調に発展を続け、18(大正7)年2月に資本金3万円に増資、伊東−沼津間の運行を開始しました。同年11月に臨時株主総会を開催し、東海諸圏にも事業拡大をしようという理想のもと、社名を「東海自動車株式会社」に変更しました。

 田中 創業時は3路線とのことでしたが、現在、東海バスは伊豆半島全域で運行しています。どのように路線を拡大していったのですか。

 石井 創業後当社は伊豆半島の近隣同業を吸収合併しつつ路線を拡大し、バス路線網を確立していきました。特に32(昭和7)年の下田自動車との合併によって、バス路線は伊豆半島全域に拡大し、ほぼ現在の路線網の基本が整いました。合併に伴いバスボディーの色を統一して、東海バスおなじみの「イエロー・カー」が誕生しました。デザインは今は直線形ですが、昔は波形でした。

 田中 東海自動車の発展が、伊豆半島の交通網の確立へとつながっていたのですね。さて、その後、日本は第2次世界大戦に突入しますが、この苦難の時代を東海自動車はどのように切り抜けていったのですか。

 石井 38(昭和13)年当時、戦争の拡大に伴い、車両の徴発で200台以上あった車両も使えるのはわずか1割ぐらいまでに落ち込みました。さらに揮発油、重油販売取締規則の公布などにより、ガソリンの使用は大きく制限されました。ここで登場したのが木炭や薪(まき)を燃料とする代燃車です。しかし平坦地を走る馬力しかなかったため、坂道ではお客さんに降りてもらうこともあったそうです。

 田中 東海自動車の先人たちは第2次世界大戦という厳しい状況の中、伊豆の交通維持のために尽力してきたのですね。その後、混乱の時代を乗り越えて日本全体が復興へと歩みを進めるわけですが、この時期の東海自動車の話を聞かせてくだい。

 石井 戦後、当社は資本金を増やし、車両の更新、購入に努めました。特に48(昭和23)年4月に導入した全国初の国産ディーゼルバス「いすゞ自動車40人乗り大型バス」は東海自動車と伊豆を全国にアピールする大きな契機となりました。以来この国産ディーゼルバスの購入を積極的に進め、わずか4年後の52(昭和27)年7月には100台に達するスピードでした。また、道路の改良に伴い伊豆を訪れる観光客も次第に増えていったため、観光客のニーズに応えるべく「伊豆半島周遊定期遊覧バス」の運行なども開始しました。朝鮮戦争特需もあって、この時代、当社は飛躍的に業績を拡大させていきました。

 ■経営多角化した戦後

 田中 東海自動車の発展と日本経済の発展が重なってイメージされます。戦後、伊豆が再び観光地として注目を集め始めた時代、東海自動車のバスが大いに活躍していたのですね。さて、61(昭和36)年12月、伊東−下田間に鉄道(伊豆急行)が開通し伊豆半島の交通の流れは大きく変わったかと思います。この時期の話を、バスと鉄道の関わりを交え聞かせてください。

 石井 伊豆急行線の開通に伴い、伊東−下田間のバス路線は大きな打撃を受けましたが、総じて大量のお客さんが伊豆に来てくれたおかげで、南伊豆から西伊豆への観光客は激増しました。59(昭和34)年には伊豆シャボテン動物公園も開業しています。(昭和)30年代にはオリンピックの需要で日本経済はどんどん活気付きました。伊豆の美しい海や温暖な気候を求めてお客さんが殺到し、空前の観光ブームでにぎわいました。また、この時期を契機に当社は経営の多角化にも乗り出しています。65(昭和40)年ごろには小室山リフト、レストハウス、ガソリンスタンド経営など、新たな事業の開拓を積極的に行いました。

 田中 その後、業績拡大や交通の安定を目指し、東海自動車は小田急グループの一員となります。

 石井 71(昭和46)年4月、当社は小田急電鉄の傘下に入りました。私はその翌年に入社しました。2年後、日本経済はオイルショックにより「狂乱物価」という造語が生まれるほどの極度なインフレーションに陥りました。73(昭和48)年の第4次中東戦争などが引き金となったオイルショックは燃料、資材の暴騰を引き起こし、観光需要は冷え込みました。また、伊豆半島全域を事業エリアとする当社は3度の地震によって大変な痛手を被りました。臨時ダイヤでの運行や鉄道の代替輸送など、伊豆の足を守るため奮闘しましたが、観光客は激減し、度重なる地震は伊豆半島全体に暗い影を落としました。復活するまでは10年ぐらいかかりました。

 ■分社化、再編スタート

 田中 伊豆半島は74、76、78(昭和49、51、53)年と3度にわたり地震が襲い大きな打撃を受けました。地元の足となる公共交通であるため、立て続けに起きた災害との闘いが大きな足かせになったのでしょうね。

 石井 制度的に地方バスは、単純に経済原則で民間が赤字路線を維持するのは正直、無理な話ですね。74(昭和49)年以降は、不採算路線を維持するために公的支援を受ける制度が整備されました。

 田中 厳しい時代を耐えて頑張っている最中、76(昭和51)年に明るい話題がありましたね。

 石井 ボンネットバスですね。現在も当社のシンボルとして活躍中のボンネットバス「伊豆の踊子号」を天城路にて運行しました。全国的にボンネットバスブームを起こす先駆ではなかったかと思います。

 田中 私たちの世代には特に郷愁を誘うボンネットバス。とてもいい発想だったと思います。大正、昭和と激動の時代を駆け抜けてきた東海自動車の歴史を振り返ってきました。また、石井社長が入社された当時の話も聞いてきましたが、時代はいよいよ平成に入ります。

 石井 昭和後半から平成初めにかけてのバブルと呼ばれた時代、世の中の景気も上向きました。平成初期は当社にもお客さんが戻ってきました。しかし、91(平成3)年のバブル崩壊以降、輸送人員は減少の一途をたどりました。グループ会社の統廃合や業務改善などを実施しましたが抜本的な収支改善には至らず、99(平成11)年2月、臨時株主総会にて乗合バス事業を地域ごとに分社化することを決断しました。また、会社を再生させるためには資本金を減少させるなど、株主の皆さまにもご理解をいただくとともに、従業員全員を一度解雇し、希望者を新たな労働条件で再雇用する形で再出発しました。

 田中 分社化は重たい苦渋の決断だったと思います。さて、会社を再編され、新しいスタートを切ったところから現在に至るまでの話を聞かせてください。

 石井 当時の世の中の状況として40%近い賃金の引き下げというのは異常な事態でした。一番大きなコストは人件費で、ここをコントロールしなければならないのは仕方ないことでした。しかし再生に向かったということで、全国10社以上のバス会社から当社への視察がありました。社員にも後がないという意識が高まり「サービス向上運動」などに取り組みました。お客さんに認めてもらえる会社になろうと頑張ってきました。

 ■地域密着「おらがバス」

 田中 2013(平成25)年より「わかりやすいバス・乗りやすいバス」のスローガンが非常に良かったと思いますが。

 石井 本業のバス事業をきちっとしなければいけないということで、時刻表の戸別配布や地区別時刻表の作成、バスの乗り方教室の実施などの施策を地道に取り組んできました。案内して配るだけでなく、お客さんの希望も個別に訪問して聞きました。高校生へのアンケートなども行い、できることは何でもやった結果、社員の意識も変わってきました。

 田中 それでは最後に、この100年間を踏まえた今後の抱負などを聞かせてください。

 石井 これから日本の人口が減っていく以上、間違いなく長期トレンドとして路線バスのお客さんは減っていくと思います。事業会社としては、安定的な収益の柱である不動産を拡充して基礎的な支えとする。もう一方で、営業的事業で収益を上げられる体制をつくりたい。攻めの部分がないと面白くない。併せて、本業であるバスは学生や免許を持たないお年寄り、来遊する観光客のためになくてはならない交通機関だと思っています。地域に密着した「おらがバス」と言われるような会社でなくてはいけない。これからもわかりやすい、乗りやすい、使いやすいバスをつくっていかなければならないと思っています。

 【写説】東海自動車の石井文弥社長

 【写説】100周年記念ラッピングバス「ゆめちゃんバス」=伊豆東海バス伊東事業所

 【写説】乗合自動車1号、2号車=東京の梁瀬商会前