0219梅まつり将棋盤面

 ■・石田豪成(熱海市) □・佐野牧男(静岡市) 自戦記/石田豪成

 ・玉の逃げ方

 先譜で佐野さんが決戦を自重した結果、戦場は一転して、玉頭で金銀がぶつかる手将棋となった。途中の長手順の変化を、佐野さんも私も正確には覚えていない。記録係はいない。それでも局後に二人で並べ直して、急所の局面だけは再現することができた。

 もし、記録係がいてその長手順の棋譜を書き並べても、丹念にお読みになる方は少ないと思う。観戦記は学術論文ではない。あくまでも読み物である。出勤の電車の中で、あるいは晩酌のひとときにご一読賜れば、それだけでありがたいと、私は思っている。

 そのひとときの一興になるだろう一場面が1図である。佐野さんは□4五桂と私の玉の逃げ方を問うている。佐野さんには指し切りの心配があるので、息を止めて私の応手を待っている。私は小考して■2八玉と逃げたのだが□3六桂の痛打が待っていた。1図に戻って、ここは■4八玉と逃げるべきだった。以下、□5七銀打■同角□同桂成■同玉□7九角■6八飛と刺すべきだった。変化図。

 ・梅まつり将棋大会今昔

 1950(昭和25)年に有名な熱海の大火があって市民の表情は暗かった。市議会議長だった松田國太郎さん(故人)は、市民を元気づけるべく花火大会を計画、立案して開催されることになった。将棋好きだった松田さんは、前後して将棋大会も開催した。梅まつり将棋大会の誕生である。

 その時、花田長太郎八段を来賓として招き大会を盛り上げた。弟子の一人の青年棋士が同行していた。後の広津久雄九段である。会場は来宮神社だった。大会の事前の設営は大変だった。足のついた将棋盤を愛棋家から借り集め、軽トラックで会場に搬入して、大広間に並べるのである。大会が終われば、再び同じ作業の繰り返しである。

 閉会後に大切な仕事があった。座布団の片付けの際のたばこの火の確認である。先輩諸氏のご苦労がしのばれる。その後、会場は市の文化会館、いきいきプラザと移り変わって現在に至っている。現在ではテーブル用のビニール製将棋盤が普及していて、往事とは格段の違いである。昔は灰皿が必需品だった。

 【図版】第1図(□4五桂まで)

 【図版】変化図(■6八飛まで)