農業に必要な水を供給する堰の改修を記念し建立された八溝用水改修記念碑=函南町大土肥の函南中入り口

 函南町にある八ツ溝用水は、元禄、宝永時代から箱根一帯を水源として、桑原地区で湧出した水を引いて、大土肥、仁田、間宮、塚本の各地区の田地に流れるように8本の用水路に分流されている。これは江戸時代に一番堀から八番堀まで八つの堀に分けていたことから八ツ溝と言われ、地名として残ったものである。

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 1748(延享5)年、間宮・塚本両村の間で用水増幅をめぐって争論となり、このとき西から溝に番号を付け、大土肥村は八番溝を利用することになったいう。裁定の結果、用水を時間で区切って各村に分配することになり、水の流れを変える時の知らせが、大土肥の妙高寺の鐘を通して行われた。

 明治時代に移り、1888(明治21)年4月25日、風水害で八ツ溝の堰[せき]が大破し、同年6月に間宮村が渇水に見舞われると、この八ツ溝早稲溝口の用水の堰止めについて示談が交わされ、熟談約定書が間宮村と仁田村、大土肥村との間で交わされている。これは何回か修正が入り、田方郡長が仲裁に入って97(同30)年8月の熟談約定書が交わされ、6月26日~8月4日の間、朝6~11時半の間は堰を止めることになった。早稲溝堀は仁田村と大土肥村の専用堀でもあった。

 その後1918(大正7)年起工の丹那工事により、予想を超える湧水による水利問題が発生した。これについては、本連載11回の「渇水救済記念碑」に紹介したが、24(同13)年に畑区で渇水現象が生じ、平井区では飲用水が窮乏する事態となった。さらに34(昭和9)年にも関係水域で未曾有の紛争があり、その解決と用水確保に腐心した。

 それ以後は「土地豊穣天産に富む耕地壹壱百六拾余町歩の灌漑は全きを得て営農の礎となる…」と碑文が刻まれているように、当地農産業には重要な役割をなしていることが分かる。

 碑は堰改修記念として57(同32)年に建てられ、時の函南村長の杉山弥三郎が撰文を書いている。

(県立韮山高校長、伊豆の国市文化財保護審議委員会副会長)

 【写説】農業に必要な水を供給する堰の改修を記念し建立された八溝用水改修記念碑=函南町大土肥の函南中入り口