義人・釜鳴屋平七を顕彰し建てられた碑。夫妻の像は沢田政広作=熱海市渚町親水公園

 義人・釜鳴屋平七(1828~63年)は、幕末期に熱海の漁民を救ったことで知られている。平七は釜鳴屋という屋号の網元の出身で、父親の平右衛門は村の百姓総代を務めていた。

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 1856(安政3)年に熱海の浜で、マグロ網の権利をめぐり漁民と網元との間で漁民一揆が起こった。安政地震以降、江戸の不景気により魚価が低落したため、網元たちは漁民たちに賃金が払えない状況となった。漁民たちは生活の糧を得るためにマグロを捕獲しようとマグロ網を網元に要求したが、これを拒否されたのであった。

 網元側からは、伊豆山権現般若院に上納金を納めており、漁業権を得ている以上はマグロ網を渡せないという理由を挙げて譲らなかった。実際のところ網元たちは、江戸肴問屋と手を結び伊豆山権現を後ろ盾にマグロ網の独占を図っていたのである。

 この事態の中で平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情し、網元側から脱退するとともに、根拵網[ねこさいあみ]を張って漁民のための手助けをして解決を図った。

 しかし網元たちはこれを韮山代官に告げ、漁民の一部を買収して自分たちの陣営に付けたのである。

 争いは激化し、収拾が付かなくなってきたことから、平七は漁民250余人とともにむしろ旗を立てて韮山代官所に直訴する。平七は役人の制止を振り切って代官江川太郎左衛門英敏に訴状を差し出そうとしたところ、たちまち代表者の平七たち3人は捕らえられてしまう。

 漁民たちは江戸に出て町奉行に訴えるも、網元側も寺社奉行に訴えたことから、町奉行と寺社奉行、そして韮山代官の3者を交えた裁判となり、漁民側勝訴とする示談が成立した。

 しかしながら、首謀者とみられた平七は許されず、63(文久3)年6月に島流しの刑を受け、同年10月江戸から八丈島送りとなった。平七は途中の大島で降ろされ、11月4日35歳で亡くなっている(病死とあるが、船中での虐待で衰弱死したのが真相である)。

 漁民たちの心には、網元の身ながら漁民の味方をした義人・平七の魂はいつまでも残ったのである。碑は1971(昭和46)年に武者小路実篤の撰文[せんぶん]により建立された。

(県立韮山高校長、伊豆の国市文化財保護審議委員会副会長)

 【写説】義人・釜鳴屋平七を顕彰し建てられた碑。夫妻の像は沢田政広作=熱海市渚町親水公園