お吉とされる女性の写真

 ■明治23と24年説混在、戸籍記録と寺の過去帳

 3月27日は幕末下田開港の悲劇のヒロイン・お吉(本名・斎藤きち)の命日。今年もお吉ケ淵や菩提(ぼだい)寺の宝福寺でお吉をしのぶ「お吉祭り」が開かれる。お吉の生涯は謎めいた部分が多く、特に没年を巡っては「1890(明治23)年」と「91(明治24)年」の2説がある。関連する文献や観光施設、看板、パンフレットなどで両説が混在し、観光客や市民の混乱を招いている。

 ■避け続けた“問題”「統一を」

 下田市教育委員会は明治23年説を主張する。市が保管していた当時の戸籍表を根拠に、公的な記録に誤記載がある可能性は低いとの見解を示す。初代米国総領事タウンゼント・ハリスの下を去ってからのお吉の記録はほとんど残っておらず、その後の人生も古老の記憶や伝承を基に書かれた想像の部分が多いという。生涯学習課の河井長美課長は「常に検証作業は続けているが、確実性の高い新しい歴史資料が出てこない限り見直しは難しい」と話した。昨年12月に刊行された「下田市史 別編 幕末開港」をはじめ、お吉が晩年に営んだ小料理屋「安直楼」(市指定歴史建造物)の説明板などにも「明治23年」と明記されている。

 一方、宝福寺は保管・展示している過去帳を根拠に明治24年説を唱える。竹岡幸徳住職(67)は「過去帳の記入は間違えが許されない重要な仕事である上、年ごとに記載するので、月日はともかく年を間違えるのは考えられない」と強調。「当時の竹岡大乗住職はお吉を埋葬した直後、檀家(だんか)の反対にあい下田を追われたという。明治23年にお吉が亡くなったのであれば、大乗住職は1年以上寺に残っていたことになりつじつまが合わず、明治24年の過去帳を書くこともできない」と主張する。同寺とともにお吉祭りを開催する市観光協会はこの説を支持し、ホームページでお吉の没年を「明治24年」と掲載している。

 下田で米国やロシアと交渉に当たった幕臣伊佐新次郎が「明治24年に物乞いに身を落としたお吉と出会った」という話もある。しかし郷土史に詳しい土橋一徳さん(91)は「そのような記録は残っておらず臆測の域を出ないのではないか」と考えており、決め手となる資料は発見されていない。

 この問題は30年以上前(1984年)の本紙でも取り上げている古くて新しい問題で、市教委や観光業界は腫れ物にでも触れるかのように避け続けている。一部の市民や観光客から「どちらかに統一してほしい」との声も聞かれるが、ある観光関係者は「仮にどちらかの説に統一した場合、反対意見が噴出するのは間違いない。事態の収拾がつかなくなるので誰もやりたがらない」と話し、解決は容易ではなさそうだ。

 お吉は1841(天保12)年に愛知県知多郡内海に生まれ、下田に移住後、14歳で芸妓(げいぎ)の道に進んだ(実際は船頭相手の洗濯女として生計を立てていた)とされる。17歳の時にハリスに仕えるが3日で解雇され、その後は「唐人お吉」とさげすまれながら流浪の人生を送り、苦境に耐えかねて稲生沢川に身を投げたと伝えられている。昭和初期にこの薄幸の人生が歌舞伎座で上演されると爆発的な人気を呼び、以降映画や小説、歌にもなった。

(下田支社・中村穂高記者)

 【写説】お吉とされる女性の写真

 【写説】明治23年説の根拠となっている市が保管していた戸籍表

 【写説】明治24年説の根拠とされるお吉の法名(左から4番目)が記された宝福寺の過去帳