小林政太郎の生家を示す石碑=三重県玉城町

 連載を終えるに当たり、これまでお話ししてきたことを「縁」を切り口にまとめてみたいと思います。

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 そもそもの始まりは、33年前私が小田原短期大に就職したことです。私は家政学科所属の教員になりました。この家政学科が2006(平成18)年、「食物栄養学科」に名称変更し、同時に栄養教諭の養成を開始しました。

 この栄養教諭養成の一環として「おだたん食育村」を始めました。この料理教室で12(同24)年、ところてん作りをしました。学科長の私は閉会のあいさつを担当し、少し聞きかじっていた寒天橋のことを話題にしました。そしてさらに3年後の15(同27)年、再びところてん作りをしました。この時、思いたって天城まで寒天橋の写真を撮りに行きました。そこで見たのは、山奥の渓流に架かった古い橋。名前の由来が分かるものは全くありませんでした。完全に謎にはまりました。

 文献による解明を始めましたが思うように進みませんでした。たまたま、行きつけの床屋さんでテングサの話をしたことがきっかけで、下田市白浜でテングサ漁に関わったことのある東京の叔母さんを紹介してもらいました。さっそくその方に電話したところ、白浜で長くテングサ関係の仕事をしてきた佐々木源也さんを紹介してくださいました。

 佐々木さんにお会いするころには文献による解明はほぼ終えていました。佐々木さんにその概要を報告して妻と天城山に登りました。そして、寒天製造工場のかまど跡らしきものを見つけました。そのリポートを佐々木さんにお送りしましたら、伊豆新聞の森野宏尚記者から電話がかかってきて、新聞連載を打診されました。さらに、私が発見したのは炭焼き窯の跡だと指摘され愕然となりました。しかし、それを契機に稲葉修三郎さんにお会いすることになり、天城の寒天の全容が解明されたのです。

 その後、寒天発祥の地である関西、寒天の密貿易を行った薩摩と寒天製造の跡地を見て回りましたが、信州の寒天を視察することは当初の予定にはありませんでした。しかし、本紙の読者でかつ小田原短期大の卒業生である三枝那智子さんが、私を伊那で天然寒天を製造している小笠原商店の小笠原英樹さんに会わせてくださいました。それによって信州寒天について勉強もすることができ、その飛躍の秘密をお話しすることもできました。

 天城の寒天の真実を求めてたくさんの人に会い、たくさんの場所に行き、たくさんの経験をしました。まさに縁は異なものです。

 最後にもう一つちょっと不思議な話をしたいと思います。三重県玉城町にある私の実家の向かいに「小林政太郎生家」という石碑が立っています。小林政太郎という人は、オブラートを発明した人です。東京の医学校を出て郷里の玉城町で医院を営んでいた政太郎は明治30年代、たまたま鉄瓶のふたにこぼれた寒天溶液をヒントにオブラートを発明。日英米独仏の各国で特許を取り、世界中にオブラートを広めました。私の実家は、政太郎の子孫から本宅の向かいにあった別荘を買い受けたものです。

 縁。それに導かれてここまで来ました。読者の皆さま、長い間ご愛読くださいましてありがとうございました。(小田原短期大教授)

 【写説】小林政太郎の生家を示す石碑=三重県玉城町