今回の選挙騒ぎを見て、アメリカの世界に対する気配りなどみじんも感じられなかった。アメリカン・グローバルからアメリカン・エゴイズムに一変した。国家間の関係など時間がたち指導者が交代すれば手を翻すように変わる。これを機に中国をはじめ際限なく勢力範囲を拡大していくのが見えるようだ。

     ◇……………………◇

 日本はどうなるのか。日本の主体をどこに置くのか。他力依存は許されない。

 日本国民は70余年間の平和になれた故に平和のありがたさを忘れている。平和を退屈視、無力視、日本人の脆弱(ぜいじゃく)さを助長するものと考えている人がある。各国の軍事力の増強、自国領土の拡張など近隣国の粗暴な行動から、「日本だけが黙っている手はない」「日本にも核兵器を」と叫ぶ人が増えている。しかし周囲との力関係を比較して、日本が戦争して、どういう結果になるか一目瞭然(りょうぜん)だろう。

 自主憲法を作って主権回復を目指すという現政権は日本を戦争のできる国にしようということなのだ。戦闘力あってはじめて国の資格が認められる、戦争もできない国なんて国家のうちに入らないのか。

 平和憲法はアメリカの押しつけだ、だから、日本独自の憲法に作りかえるのだという政府。たしかに押しつけられた面は否めない。あの徹底的に敗戦国に成り下がった日本が占領軍に対して自己主張できる余地などほとんどひとかけらほどしか残っていなかった。当時の幣原(しではら)内閣の言い分にしても日本が生き残るだけの最低の余地しかなかったはずだ。しかし当時、日本人がいかに敗戦国民であったにしても、明治以来の軍国教育を生きてきた頭から、心情から、恒久平和、戦争全面放棄などという思想は出てこなかったろう。これは勝者が敗者に対して一方的に押しつけでもしない限り、日本側の当局者から主体的に出てくることではない。「戦争放棄」−丸腰にされ、高圧的な相手の下で、今後、戦争は二度と致しませんと軍備一切を放り出しての命乞い−というのが実際だったと思う。

 今日まで、いくつか終戦秘話と称するものを読んできたが、日本人が敗戦の屈辱感から身をそらして「アメリカの言いなりばかりではない、日本側も堂々と自己主張した」と言っている話も幾多あるが、あまり信用できない。日本は完敗したのだ。憲法九条の趣旨は考えようによれば、これほど敗惨の屈辱に堪えぬものはない。だが、1945年以降、アメリカを主軸とする世界はますます戦争の歯止めを失ってきた。

 第2次大戦が終わった時、世界は「やれやれ、やっと終わった」と胸をなで下ろし、国のための戦争よりも小さな個人の平和が帰ってくることを心から喜んだ。「平和ムード」が世界から日本を浸した。

 平和憲法を屈辱と考えるより、何しろ戦争がないに越したことはない。平和が一番、戦争はこりごり、が日本の庶民の本音だった。これに平和憲法はぴったり嵌(は)まった。

 だが、この平和ムードも長くは続かなかった。米ソの対立から戦争の火の粉が世界中に散らばり、ついに日本にも降りかかり、日本だけが平和憲法を享受(きょうじゅ)することが難しい時代になった。

 「平和憲法なんて所詮、架空の産物。子どもの夢ですよ。現実を無視している。日本が国としての看板を掲げる以上、好む好まざるにかかわらず避けて通れない道なんですよ」

 「子どもの夢、いやそうかもしれない。超理想主義と言ってもいい。しかし私は、あえて平和憲法に日本人の生命を賭けてみたい」

 「日本が侵害されても黙って何もしないでいるつもりですか。目の前で同胞が殺されるのをあなたは黙って見ていろと言うんですか、それでも日本人ですか」

 「私は難しい議論をしようとは思わない。そんな知識もない。ただ一途に戦争が嫌いなんですよ。私は今年90になります。私の生まれた家も、家族も、財産も何もかも、この前の大戦で全て灰になってしまった。それを二度と繰り返したくない。ただ、それだけです。金輪際(こんりんざい)、戦争はまっぴらです」

(近世文学)