ディアナ号水兵から学び旭日丸航海長に白羽の矢が立った鈴木伊三郎の像=西伊豆町安良里・黄金崎公園内西端

 鈴木伊三郎(1820~90年)は、1820(文政3)年5月、宇久須村(現西伊豆町)に生まれた。生家が海運業を営んでいたことから、ペリー来航後、江戸に出て幕府海軍の船手として採用された。

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 翌年の54(安政元)年11月4日に安政東海地震が起き、下田港に停泊していたプチャーチン提督の乗るロシア軍艦ディアナ号が大破し、この修理のため戸田港に回送中に富士沖で沈没する事件が起きる。プチャーチンはこの時日露交渉に来ていた矢先であった。

 帰国する術[すべ]を失ったロシア乗組員のため、新たにヘダ号造船が企画されることになる。鈴木伊三郎はこの時戸田に赴き、ロシア水兵から西洋式の造船技術と航海技術を学ぶのである。

 ヘダ号は短期間で建造し、これにプチャーチンは乗船して本国に帰るのだが、この時造船技術を学んだ者たちはその後その技術を生かして大きく羽ばたいていったのである。

 碑陰には次のように刻まれている。「明治維新ソ連兵から洋式帆船の操法を学ぶ。函館戦争当時幕府の軍船旭日丸の船長となり活曜した海の快男児である。維新後千石船を造り郷上の発展に尽した先覚者である。明治二十三年七十歳で没す」…。伊三郎の船大工から造船技術者としての変貌の様子が分かる。

 57(安政3)年7月に江戸小石川造船所で、当時国内最大の帆船である幕府軍艦「旭日丸」が進水するも、旭日丸はこの時重大な設計ミス(復元力の計算違いによるもので、大波を受けると転覆の可能性大という危険)があったがゆえ、操法技術を持つ伊三郎に航海長の白羽の矢が立ったといわれている。

 碑陰にあるように、伊三郎は新政府に加わることを拒み、榎本武揚に付いて函館戦争に加わった。しかし五稜郭の戦いに敗れて降伏し、伊三郎は東京へ護送される。そして、72(明治5)年に釈放され、地元の宇久須へ戻ることになった。

 郷里に戻って再び海運業を始め、千石船「いなり丸」で伊豆と東京を往復する日々を送ったのである。

(県立韮山高校長、伊豆の国市文化財保護審議委員会副会長)

 【写説】ディアナ号水兵から学び旭日丸航海長に白羽の矢が立った鈴木伊三郎の像=西伊豆町安良里・黄金崎公園内西端