新婚早々、古里の伊豆・湯ケ島に帰省し、くつろぐ井上靖・ふみ夫妻=昭和11年正月(ガラス乾板)

 ■近所の鈴木波津子さん宅から

 作家・井上靖の実家があり、幼少期を過ごした伊豆市湯ケ島の旧家の蔵から、靖と新婚間もない妻のふみさんや家族らを写したガラス乾板が発見された。井上家は代々医者の家柄で、ふみさんは京都生まれだが、ふみさんの父親は湯ケ島出身の世界的な人類学者、解剖学者である足立文太郎氏(京都大教授)で、古里の人々に新妻を披露するために帰郷した際の写真とみられる。同市の地域おこし団体である湯ケ島地区地域づくり協議会(安藤裕夫会長)とNPO法人伊豆学研究会(橋本敬之理事長)が地域の古い写真を調査、整理している中で出てきた。(文、写真 森野宏尚)

 ■調査、整理中出てくる 地域づくり協・伊豆学研究会

 井上靖の貴重な写真原板が見つかったのは、靖の実家から近い同市湯ケ島の鈴木波津子さん宅。鈴木さん方は、古くから湯ケ島を代表するワサビ生産者で地元の資産家。波津子さんは「蔵にガラス乾板やフィルムなどの写真が多く残っているのは知っていたが、紙焼きではないため何が写っているのか分からなかった」という。

 このため波津子さんが、知り合いの湯ケ島地区地域づくり協議会の安藤会長(68)に調査、NPO法人伊豆学研究会の橋本理事長(64)に写真のデジタル保存化などを依頼した。安藤会長は「写真総数約2千点のうち6割ほどがガラス乾板、4割ほどがフィルムだった。時代が特定できる昭和10~16、17年を中心に、多くは地域の生活や文化を写したもの」と説明する。

 分類や保存作業を進める中で、井上靖本人や両親らが写った写真原板が何枚か出てきて関係者を驚かせた。その中には靖とふみさん2人で収まったものが2点、靖とふみさんを囲み軍医だった靖の父・隼雄[はやお]氏、母のやゑさん、ふみさんの母親の足立ヤソさん、靖の妹の静子さんの6人で撮ったものが1点。3点とも撮影場所は湯ケ島の井上家の庭とみられる。このほか湯ケ島に住む両親と地域の名士が談笑する写真原板なども10点以上あった。

 当時の井上家の建物は道の駅「天城越え」にある昭和の森会館隣接地に移築され現在はないが、屋敷跡は今もそのまま残る。安藤さんは「靖とふみさんがポーズを取る1枚には大きな灯籠が写り、この灯籠は今も屋敷跡にあり、井上邸で撮られた写真であることを証明している。後ろの木も同じ位置に残る」と話す。

 これらの写真はいつ撮られたものか?。ふみさんの著書「やがて芽をふく」(1996年発行、静岡新聞に93年1~4月「わが青春」として連載に加筆)には、二人の結婚式は35(昭和10)年11月24日に京都で挙げ「私たちは新婚旅行には行かなかった。一カ月ほど後の正月に、伊豆に帰郷するのを新婚旅行と兼ねることにしていた」と出てくる。

 ■新婚旅行を兼ね帰郷 昭和11年正月、実家の庭で

 井上夫妻はじめ両家の家族らが写る写真は、長泉町の井上靖文学館の学芸員・徳山加陽[かや]さん(32)の調査で「新潮 日本文学アルバム 井上靖」(新潮社、1993年発行)に使用されていることが分かった。説明には「昭和11年1月、新婚旅行を兼ね湯ケ島へ」とあり、挙式1カ月後に湯ケ島で撮影されたことが裏付けられた。新婚の夫妻が写る写真も含め3点はふみさんの着物柄が同一のため、この時に撮られた可能性が高い。

 「若き日の井上靖研究」など多数の著書がある藤沢全[まとし]さんは、ふみさんと2人写る靖の表情に「戦局など時代への不安はあっただろうが、京大教授の娘を妻にもらって両親がいる湯ケ島に戻り、エリートとしての自信とプライドを感じるとともに、古里とゆったりと調和できたという表情も読み取れる」と評した。

 ふみさんの父親の足立文太郎氏は写っていないが、学会出席の時間すら惜しむほど研究に没頭したといわれるため帰郷していないようだ。「文太郎さんの代わりにヤソさんが湯ケ島の人たちに新妻として娘を紹介、披露したのだろう」と藤沢さんは写真に視線を落としながら語った。

 徳山さんによれば、灯籠前に新婚の井上夫妻が写る写真は井上家のアルバムに紙焼きされ、黄色く変色した状態で残っていたという。場所、年月日などは明記されていないが、徳山さんは「おそらく撮影された直後に紙焼きして井上家に贈られたものだろう」とみる。今回見つかったのは、これらの原板だ。

 ■祖父の功さん撮影か 付き合い密だった両家

 これらの写真は誰が撮ったのか?。鈴木波津子さんは「ガラス乾板である点などから写真が趣味で明治21年に生まれ、昭和32年に68歳で亡くなった祖父の功だと思う。大正6年生まれ、平成16年没の父・之夫[ゆきお]も酢(現像、焼き付けに酢酸を使用)の臭いが記憶に残るなど家で現像するほど写真好きだった」

 靖の両親を囲んで談笑する写真の右端に写るのが功氏だ。この写真は「功のカメラで写し、功がシャッターを押すだけにセットしたものを20歳そこそこだった之夫が撮ったのではないか」と推測する。

 徳山加陽さんは「出征中の井上靖の日記には功さんの名前も出てくる」とし、2人は心を許し合う深い絆で結ばれていたと想像される。波津子さんによると鈴木家と井上家は、母親と靖の父親がいとこ同士という親戚関係で、両家とも地域の名士で付き合いは密だった。

 「靖さんが『闘牛』で芥川賞を取ったときは、いち早く父が井上家に教えに行き、隼雄さんは涙を流して喜んでいたと聞いた。私も大学生の時、東京・世田谷の井上邸にはよく遊びに行った。私の踊り家元の名前は、ふみさんに付けてもらった。見つかった写真は井上研究や地域のために生かしてもらえれば…」と話した。

 一方、井上靖は結婚した翌年(新婚の夫妻や家族で湯ケ島に里帰りした年)にふみさんの懇願もあって29歳で京大を卒業し、大阪毎日新聞社に入社した。ところが次の年には本籍のある伊豆・湯ケ島から赤紙が突然届き、日中戦争で中国北部に従軍した。だが病気により数カ月で本国に送還、除隊となる。静養後に毎日新聞学芸部に復職、芥川賞受賞を契機に、わが国を代表する人気作家としての地歩を固めていく。

 【写説】新婚早々、古里の伊豆・湯ケ島に帰省し、くつろぐ井上靖・ふみ夫妻=昭和11年正月(ガラス乾板)

 【写説】蔵から出てきたガラス乾板写真などを見る鈴木波津子さん=伊豆市湯ケ島、今年7月撮影

 【写説】今も旧井上邸の庭に残る灯籠と安藤さん=伊豆市湯ケ島、今年7月撮影

 【写説】京都で挙式したほぼ1カ月後、新婚旅行を兼ねて湯ケ島を訪れた井上靖とふみ夫妻(後列中央と右から2人目)、前列が父・隼雄氏、右端が母・やゑさん、左から2人目がふみの母・足立ヤソさん、左端が靖の妹・静子さん(ガラス乾板)

 【写説】井上靖の父母を真ん中に右端が帰省した新婚の靖・ふみ夫妻らを撮ったとみられる鈴木功氏、左端が造り酒屋の浅田貢氏(ガラス乾板)