愛新覚羅慧生さん

 ■離れた2人、抱き合う 新証言・最初は1人倒れる

 60年前の1957(昭和32)年12月、天城山中で発生した学習院大2年生の愛新覚羅慧生[あいしんかくらえいせい]さん(19)と大久保武道[たけみち]さん(20)の若い2人の心中事件は当時、衝撃的なニュースとして日本中を駆け巡った。4日に失踪し捜索願から6日目の10日、2人ともこめかみを撃ち抜いた無念な姿で発見された。これまで「抱き合って」や「男性の左腕にもたれかかり亡くなっていた」「男性の右手には拳銃が握られていた」などと、最期の姿が報じられてきた。だが警察の発表とは別の第一発見者がいて、遺体の状況も異なる(意図的?に動かされていた)可能性が出てきた。真相を追った。(文、写真 森野宏尚)

 心中遺体の“真”の第一発見者とみられるのは元河津営林署寒天[かんてん]製品事業所に勤務していた河津町峰の後藤晋さん(86)と同町小鍋の同僚(81)らだ。寒天製品事業所は旧下田街道の寒天橋(旧天城トンネルの河津側)から寒天車道を200メートルほど入った場所にあり、主に山中から材木を切り出すための現地事務所のようなところ。心中現場から直線距離で520メートルほどしか離れていない。

 異変を察知した地元猟師の案内で事業所主任、下田署湯ケ野駐在所署員の須藤正敏巡査を加えた5人で天城山中の心中現場方面に向かった。普段と状況が異なる獣道をたどると、2人の遺体があった―という。旧天城トンネルから八丁池に向かう途中の向峠[むかいとうげ]近く、クマザサに覆われた登山道脇から約15メートル入ったヒメシャラ(当時の報道はサルスベリ)の根元付近で、田方郡と賀茂郡の郡境付近からわずか10メートルほど田方郡域に入った場所だ。

 「慧生さんは直径30センチほどのヒメシャラの木にもたれ掛かり、そこから1メートル以上離れた地面に大久保さんは仰向けの状態で倒れていた。拳銃は大久保さんの前に落ちていたが、体から1メートルぐらい離れていた。慧生さんは血に染まるようなことなく、きれいだった。千鳥格子のスカートをはいていた。大久保さんは背広にコートを着ていて、眼鏡がずれ、黒の新品の革靴は片方脱げていた。遺体の周囲には血をぬぐったと思われる紙がたくさん落ちていた」と、元職員は当時の状況を生々しく語った。

 ところが後日の後藤さんへの再取材(単独)で突然、こんなことを言い出した。「1人で伐採現場を見に行くと、ヒメシャラの根元に女の人が倒れていた。(おそらく5日)午前10時前で、拳銃は見当たらなかった。ずっと口外せず、数日後に再び5人で現場に行った時には女の人がヒメシャラにもたれ掛かり、男の人がその前に倒れていた」。記事の前半部分は、後藤さんが同僚らと再度現場に行ったときの様子だ。

 これは注目の新証言である。大久保さんは5日午前も心中できずに逡巡[しゅんじゅん]、後藤さんが慧生さんを発見した時は周囲のどこかに身を潜めていたか。だが、後藤さんが下山して捜索隊を連れて来ると思いついに決断。慧生さんをヒメシャラに立て掛け、自身に向けて引き金を引いた? 後藤さんは「事件に関わると面倒なことになると感じ、思い悩んだが名乗り出ることができなかった」と明かした。

 ■前日に遺体を確認 元営林署員らが目撃する

 2人の遺体は12月10日午前9時半ごろ、元上河津村消防団員5人が発見した(警察発表)―とされる。10日付夕刊は「頭を並べ抱き合うように倒れていた」(毎日新聞)、「大型のピストルは大久保君の右手にそのまま握られていた」(朝日新聞)などと報じている。

 新聞などの報道、心中遺体の写真をスクープしたカメラマン、これまで第一発見者とされてきた消防団員らによる証言と、なぜか遺体の状況が異なる。

 事実に基づき書かれたという有馬頼義さんの小説「天城山心中」には検死した足立敏夫医師(伊豆市湯ケ島、心中から7年後に取材)が「当時の大仁署巡査部長の話によると、死体は八丁池に登る途中右側の藪[やぶ]の繁みの、桜の木のきり株のところに、ビニールの風呂敷をしいて、香水をまいて、慧生さんは大久保君の左腕を枕にして、抱き合っていたということです」と語っている。

 一方、元河津営林署職員の後藤晋さんと同僚らが2人の遺体を確認したのは、朝方ではなく昼過ぎという。心中現場に向かった時間から勘案して、確認したのは午後2時ごろ。「昼過ぎに発見」は、10日以降では遺体が現場になかった可能性があるほか、あっても多くの警察官などがいたはずで、あり得ず、少なくとも9日以前ということになる。

 元職員によれば山中の事務所は新聞の配達域ではなく、当時はテレビもなく晴れれば土・日曜日も仕事をしたため曜日や日にちの感覚がズレ、何日だったか覚えていないという。「8日の可能性もあるが、たぶん9日だと思う。遺体発見現場が田方郡側だったため早々引き揚げ、それぞれが職場に戻ったのは夕方近く。それから大仁署や天城営林署に発見情報の連絡を入れたとしても、現場に行くには遅すぎ、翌朝に行ったと思われる」と続けた。

 ■気を失った警察官 前日と違い衝撃走る?

 河津町梨本の元民宿経営・稲葉修三郎さん(91)は、心中遺体の第一発見者の1人とされる元上河津村消防団員である渡辺寅二さん=河津町奥原、本年死亡=から、こんな話を聞いていた。

 「渡辺さんは下田署湯ケ野駐在所の須藤巡査らと山に入り、須藤巡査は普段はこわもてにもかかわらず、心中遺体を見るなり動転し気を失ったという」。なぜか?「気弱で失神したのではなく、前日に見た遺体の状況と異なり、それに衝撃を受けたのではないか」

 この事実は警察でも把握していたが、心中とは直接関係なく事件を複雑化するため、須藤巡査や警察は、あえて問題にしなかった―との見方もできる。

 当時を知る警察関係者の多くが亡くなり、調書も処分し(大仁署の佐野信浩副署長)、今となっては推測するしかないが、9日午後に遺体を発見した1人である須藤巡査は翌10日に大仁署員や上河津村消防団員らを心中現場に案内し、所轄である大仁署が確認した時間が10日午前9時半ごろで、同行した上河津村消防団員を第一発見者にしたとすれば全てつじつまが合う。

 ■元消防団員は見ていた 指輪抜き投げ捨てる

 警察発表の第一発見者とされる元上河津村消防団員・田島要さん(河津町奥原、故人)の妻・栄子さん(82)は、夫からいろいろ伝え聞いていた。

 「新婚間もない頃で(9日)夜8時すぎ、寝ていると消防団関係者があす朝捜索に出るので協力してくれと言いに来た」「中年の女性が慧生さんの指からいきなり指輪を抜いて放り投げた。それを見て余計かわいそうに思った」など。

 慧生さんと大久保さんは山中で2人だけの結婚式をひそかに挙げ、冷たくなった慧生さんの左手薬指には結婚指輪がはまっていた? それを見た遺体確認で心中現場を訪れた、交際を認めなかった関係者が、とっさにとった行動のようだ。

銃声に犬ほえる

 心中時間について河津営林署寒天製品事業所に泊まり込んでいた元職員は、犬の異変に気付いた。「イノシシが事業所近くに来たと思ったが、夜間、森閑とした山中に鳴り響いた銃声に犬が反応したか? 時間は(4日)午後7時ごろ」、結婚して事業所近くの官舎住まいだった後藤晋さんは「(5日)朝方、銃声を聞いた。猟では早すぎると思った」

 ■メモ

 〈愛新覚羅慧生さん〉

 中国清朝最後の皇帝(元満州国皇帝)溥儀[ふぎ]氏の姪[めい]。父・溥傑[ふけつ]氏は溥儀氏の弟で、母は日本の華族である元正親町[おおぎまち]三条家の嵯峨浩[ひろ]さん。2人姉妹の長女で、中国で生まれたものの学習院幼稚園に入園し、その後、一家は中国へ帰国したが、慧生さんは系列の小学校入学のため1人日本に残った。

 戦後、母親の横浜市の実家で母妹と暮らし、学習院大国文科に進学した。

 〈大久保武道さん〉

  青森県八戸市の出身で、父親は九州帝国大を出て事件当時は同県南部鉄道の常務取締役だった。地方ではかなりの旧家で、漁具の販売問屋を手広く経営する大久保家の長男として生まれた。父親の日中戦争応召にちなんで「武道」と名付けられ、質実剛健に育てられたという。当時は文京区内の寮住まい(渡辺みどり著「愛新覚羅浩の生涯」など参照)。

 【写説】愛新覚羅慧生さん

 【写説】奥右のヒメシャラ根元に2人は抱き合うように倒れていたといわれるが…。看板の「彗星」は誤記?

 【写説】60年前の12月4日午後5時すぎ、2人は旧天城トンネル右手の登山道から暗闇の中、登り始めた=伊豆市湯ケ島