スクープ写真を撮影した坂口昇蔵さんと妻のはる子さん。60年前の様子を手ぶりを交えて語る=下田市2丁目の自宅

 ■“整いすぎた”2人の遺体 大久保家側関係者から「よく撮ってくれた」

 1957(昭和32)年12月、天城山に散った学習院大同級生の若い2人について「無理心中」や「覚悟の心中」などいろいろ言われ、いまだ両極の見方がされている。そんな中、心中後の遺体は動かされた可能性が出てきた。いつ、だれが、何のために、また実際そんなことはできるのか―などの疑問も湧く。だが、心中写真をスクープしたカメラマンが見た“整いすぎた遺体”は不自然にも映る。心中から60年がたち、当時を知る多くの人が亡くなり、関係する存命者や資料を探し出して再検証した。(文、写真 森野宏尚)

 天城山心中の2人の遺体を最初に撮影した人が当時、下田市に住んでいた。毎日新聞系列の「サン写真新聞」(1946~60年発行、タブロイド判夕刊紙の草分け)の嘱託カメラマン坂口昇蔵さん(94)である。坂口さんがスクープの裏話などを語った対談が、下田市を中心に発行された同人誌の季刊「下田帖」20号記念特集号(1990年発行、現在廃刊)に掲載されている。

 「私が現場へ行った時は、警察の人たちもいませんでしたし、誰もいなかったんです」

 どうして他社よりも早く駆けつけられたか―の問いには

 「本社から2人が行方不明になって天城山中の方へ行ったようだから捜索してくれと指令があって、沼津に泊まり込みで…毎日、天城山中をかけずり回っていたんです。警察や消防団、報道陣とか、いろいろな人たちが天城山に深く入り込んでいました。朝の7時ごろから日が暮れるまで、くたくたになるまで動き回りました」

 毎日新聞の10日付夕刊や渡辺みどり著「愛新覚羅浩の生涯」などによると、武道さんの父親・弥三郎さんや同級生、友人の東大生らも独自に捜索した。

 (遺体発見現場は)普通に山道を歩いていたら分からない所ですね―の問いには

 「その辺りも1週間ぐらい、何回も歩いていたんですが、気が付かなかったですね」

 「2人は抱き合っていて、今でもその光景は目に浮かびます。…男の方はピストルを握ったままで―」

 「現場のありさまは静かな乱れのないものを感じました。足はきちんとそろえられていましたし、腕を組んで覚悟の自殺の様相です。とてもきれいな、清潔な死に方というか、私の心に今でも深く焼き付いています」

 「私が写真を撮って、しばらくしてから検視官などもやって来て、全部調べてムシロをかぶせたと思います。そこへ各報道陣がやって来たんですが、もう遺体の写真は撮れなかった」

 「内緒でしょうけど、大久保さんの方から内々に会社の方へ『よく撮ってくれました』というような意味のことが伝えられていたと、後で聞きました」

 坂口さんは、このスクープ写真で編集局長賞をもらい、正社員に採用された。

 ■「無理心中」恐れ操作? “演出”不用だった覚悟の自殺

 2人が失踪した後、7日付の朝日新聞は「ピストルで脅され? 級友と姿を消す」との見出しで「慧生さんは大久保さんにピストルで脅されたという友人の話もあるので、無理心中のおそれがある」などと報じている。

 2人の関係について愛新覚羅家では、大久保さんにピストルで脅されて天城山に強制的に連れて行かれ、山中で無理心中させられた―と主張する。都内で、この様子を見た友人らも同調する。これに対し、大久保家や同級生の多くは2人が愛し合っていたとし、身分の違いなどから結婚できないと悟り、合意の上の心中だと主張している。両者の見方は真っ向から対立する。

 “真”の心中現場は2人が離れて絶命、拳銃も離れて落ちるなど、一見して愛新覚羅家の主張を後押しするような光景だった。これを見て慌てふためき、とっさに大久保さんによる無理心中と判断(勘違い)してしまったある人が、無理心中を疑われることを恐れて2人が抱き合うよう(左手に抱きかかえるよう)に遺体を操作し、拳銃も右手に握らせて合意の上の心中を装った―のではないか。

 大久保さん側にとって将来にわたり武道さんによる強行、無理心中―と言われ続けるのは屈辱的である。覚悟の心中を思わせる写真を掲載したサン写真新聞に届いた「よく撮ってくれた」の一言は、遺体を動かした本人からのお礼の言葉だったのかも知れない。

 しかし、最初に2人の遺体を見た元営林署職員(81)は、こんな見方をする。「2人は離れて倒れていたものの、直感的に合意の上の心中だと思った。慧生さんはきれいな状態でヒメシャラの木にもたれ掛かり、血もなく安らかな表情だった。大久保さんが慧生さんを撃った後、血をぬぐうなど身辺をきれいにしてから後を追ったように感じた」。遺体を動かした本人は必死だったため“一線”を超えてしまったが、全て杞憂[きゆう]だった?

 マスコミの中には、雨が慧生さんの血を洗い流した―と書いたところもあったが、元営林署職員は「行方不明の日からずっと天城山では雨は降らなかった」と記憶をたどった。

 ■94歳存命思い出語る スクープ写真、下田の坂口さん撮影

 坂口昇蔵さんが存命であることが分かり、下田市2丁目の自宅を訪ねた。現在94歳。妻のはる子さん(90)によると若干認知症の傾向がみられるものの、スクープ写真をものにした際のことを断片的に語り始めた。

 「もう、あれから60年かね」と口火を切り、「拳銃を持った男性の右手は胸の上にあった。2人はそれぞれ足をそろえ、縛ってあったような気もする。慧生さんはきれいな人だった」。はる子さんが夫の撮影したスクープ写真の掲載されたサン写真新聞(1957年12月12日付)のコピーを持って来てくれた。1面トップを飾り、この写真は他紙にも使われたという。

 顔が分からないように胸から下の、2人が寄り添うように横たわる写真だ。左には今も現地にあるヒメシャラの木が写る。

 坂口さんは自身の写真を久々に見て「よく撮った。いい写真だ」と満足顔。はる子さんは「この人は1週間ぐらい家を空けて、足が丈夫だったため飛び回り撮影できた」のほか「旧天城トンネルまで2人を乗せたタクシー運転手が、すぐ警察に知らせていれば心中することはなかったのでは…」とずっと思い続けてきたという。

 坂口さんは写真店を営んでいた際に頼まれ、嘱託でサン写真新聞のカメラマンになった。

 ■ほおかすめた弾痕が証明 天国で結ばれた2人

 有馬頼義さんの小説「天城山心中」には検視した医師の証言として、慧生さんには左こめかみから右に貫通した1発(致命傷)のほか、ほおをかすめて肉をそいだ1発があり、「愛新覚羅家では、逃げようとした慧生さんを(大久保さんが)遠くから撃った」と主張しているという。

 だが発見された薬きょうは2発で、「警察は大久保さんが自分の右こめかみを撃った弾丸が貫通、それが慧生さんのほおをかすめて飛び去ったと考える」との医師の言葉を紹介する。

 慧生さんが倒れたり、2人が接近したりでは角度や傷跡的に疑問が生じるか。ほおをかすめた弾痕は、慧生さんが木にもたれ掛かり、少し離れた場所にいたことを証明する“デスメッセージ”とも取れる。ただ「ほおに傷はなかった」(9日午後、元営林署員)や「顔の半分に獣などがかじったような跡があった」(10日午前、元消防団員から妻が聞く)との証言もある。

 一方、死後硬直と言われる通り「遺体を動かすのは難しい」と話す医師がいるのに対し、「外気温にもよるが約4日で硬直は解ける」との説もある。

 遺体発見の情報を得たか、遺体を偶然発見した何者かが、後藤さんらが心中現場を離れた9日午後から翌朝に上河津村消防団員が確認(坂口さんがスクープ写真を撮影)するまでの間に遺体を操作? また実行者は60年もたち特定するのは難しいが、“演出”の状況から2人の交際に肯定的な人―とは考えられないか。

 心中からおよそ3年後には2人が交わした手紙をまとめた遺簡集「われ御身を愛す」が発刊された。4年前の朝日新聞別刷り特集に伊豆市湯ケ島のたつた旅館の元社長・山田正さん(故人)の証言が載っている。「遺簡集『われ御身を愛す』が発刊されたとき、鎮魂を祈念したのか、武道さんの母が御影石(心中現場にある)の下に埋めていた」。現世ではなく天国で結ばれた2人。もう少し遅い時代に生まれていれば、悲劇は起きなかった。

 【写説】スクープ写真を撮影した坂口昇蔵さんと妻のはる子さん。60年前の様子を手ぶりを交えて語る=下田市2丁目の自宅

 【写説】下田の坂口昇蔵さんがスクープした心中現場の写真を載せたサン写真新聞(1957年12月12日付)のコピー=坂口さん提供(写真は加工)