稲取灯台(復元)から見える戸茂呂岬沖合

 ■東浦路と戸茂呂岬の燈明台

 吉田松陰が下田に下り、すげが講習に通った東浦路は、踊り子の一行が稲取に向かって歩いた道でもある。稲取と下田を往復する50キロの道を、徒歩でたそるイベントを実施することは、道路事情などで難しいであろうが、参考になるマップや見どころ案内は作れないものであろうか。せめて、稲取の灯台群を巡るマップと関連する歴史案内を作りたいと思っている。

 すげの祖父、清四郎は狼煙(のろし)番として、この地に移り住み、峠の茶屋を営んでいた。1844(天保15・弘化元)年、清四郎は海に面する場所に峠道を照らす常夜灯を兼ねて、高さ3メートルほどの燈明台を建てて船の目印とした。

 53(嘉永6)年5月26日(現暦では7月2日)に琉球・那覇を出航し、今であれば稲取に七夕の飾りが揺れていたであろう7月7日の夜、黒船と恐れられた米国のペリー艦隊4隻が伊豆を目指して進み、真夜中ごろには稲取沖を通過して、江戸湾に向かって行った。

 ペリー艦隊が伊豆沖を航行している時、深い霧は出ていたが、岸壁や山の稜線は見えており、濃い海霧は海面付近に漂っていて、航行に支障をきたす状況ではなかったと思われる。従って、望遠鏡で監視していた当直の士官や兵士の誰かが、戸茂呂岬の燈明台の明かりを視認していたかもしれない。

 翌年、再度来航した黒船を追って、松陰と従僕の2人は戸茂呂岬を通って、東浦路を下田へ急いだとされている。戸茂呂岬の峠には、未だ桜の花が咲き残っていたかも知れない頃であった。

 黒船が稲取沖を航行した時に、清四郎が狼煙を上げたとする記録も、稲取(竜宮)岬に設置されていた大砲が、火を噴いたとする記録も見たことがない。

 【写説】稲取灯台(復元)から見える戸茂呂岬沖合