稲取灯台から見た爪木崎灯台と神子元島灯台

 ■戸茂呂岬の峠道通り下田へ

 燈明台は、幕末から明治に移行した慌ただしい時代を静かに見守りながら、稲取灯台が建築されるまでの、およそ65年間にわたってともされていた。

 燈明台を私築し、長年に亘って維持・管理していた行為が、当時白田村を支配地としていた、小田原藩大久保家の知るところとなり、清四郎は小田原藩から報奨金と土地を賜ったとのことである。しかし、川奈や見尾火(御前崎)の燈明台のような資料や絵図が見当たらないために、規模や構造は不明である。

 幕府要人の名前にあまりなじみはないが、下田でペリーと条約交渉(下田条約締結)を終えた、林大学頭の一行は、嘉永7(1854)年6月に戸茂呂岬を越えて、江戸に戻っている。

 川路聖謨はロシアのプチャーチンと交渉するために、戸茂呂(ともろ)岬の峠を通って下田に向かっている。聖謨が書いた下田奉行日記によると、この時、峠の手前にある白田川の橋は流失していたので、一行は浅瀬を渡り、峠を越えて、その日は稲取に宿泊していることがわかる。

 戸茂呂岬の峠付近の道は、狭くて急坂が多かったために、駕や馬に乗って越えることができず、幕府の要人である2人も、多くの家来を引き連れて、歩いて峠を越えざるを得なかったようである。

 プチャーチンは、ペリー来航の1年後、嘉永7年10月にディアナ号で下田へ入港している。川路聖謨と交渉を始めた直後の11月4日朝に起きた「安政の東海大地震」による津波で、下田は壊滅的な被害を受け、ディアナ号は大破した。しかし、交渉はすぐに再開され、その年の12月21日(11月27日に安政と改元)に日露和親条約は締結されている。なお、大破したディアナ号は、修理のために戸田へ回航する途中に沈没してしまった。

 【写説】稲取灯台から見た爪木崎灯台と神子元島灯台