灯台守という官名(役職)はなく、正式名称は何度も変わっているが、明治23(1890)年の逓信省令では「航路標識看守」となっている。

 萩原すげが神子元島灯台に上った1年程前に、歌人の若山牧水が友人の古賀安治を訪ねて、神子元島に渡っている。牧水がこの島に1週間ほど滞在し、灯台に上ったことなどは、「燈臺守」や「樹木とその葉 島三題」に書かれている。竹久夢二も「をさなき燈台守」という小文を書いているが、いずれも大正時代に書かれたものである。

 いつごろ、誰が灯台守という名称を使ったのかは分からないが、明治40(1907)年に発行された、数冊の本には「燈台守」の題名が付いている。それ以前では、田山花袋が翻訳した作品の題名を「燈台守」として、明治35(1902)年刊行の雑誌に掲載されている。

 田山花袋は各地を旅し、灯台や周囲の風景の印象について、紀行文や旅行案内のような文章を書いている。明治42(09)年には島崎藤村らと共に4人で伊豆を旅し、石廊埼灯台にも立ち寄っている。その旅の帰りに、下田から汽船に乗って伊東に向かっているが、4人が伊豆を旅したのは2月であるから、未だ稲取灯台の建築は始まっていなかったであろう。

 牧水は大正2(13)年に、東京の霊岸嶋(八丁堀に近く、東京駅や築地からも、それほど遠くない)から汽船で下田に来ている。大正7(18)年には、下田で踊り子と別れた学生が、汽船に乗って東京へ帰っている。

 東京と下田間の汽船は稲取に寄港するだけであり、上り下り便とも発着は昼ごろであるから、誰も稲取灯台の明かりを見ることもなかったので、稲取の印象も残らず、灯台の存在も気付かなかったのであろう。注目されるような作品は書かれていない。