昭和10年頃の東京湾汽船(大島航路)運行表。明治42年および大正9年の地図にも伊東―大島間の航路が記載されている

 当時、東京と下田の間で汽船を運行していたのは、東京湾汽船(株)である。明治24(1891)年の資料には、寄港地は「東京−熱海−網代−伊東−稲取−下田」とされているが、貨物の都合で他の港にも寄港していたようである。当初は海産物などの貨物が、乗客よりも優先されていたために、乗客の評判は良くなかった。東京湾汽船が貨主客従の営業方針を、客主貨従に改めたのは、昭和3(1928)年である。

 明治時代後半に、三模範村の一つに選ばれた稲取村には、外国からの視察者も含めて、多くの人々が訪れている。

 しかし、交通の便が悪く、温泉もなかった漁村は、旅行者には魅力の乏しい土地であった。記録では、汽船が稲取に寄港した時、富戸へ向かう名もない木挽き(こびき)一人だけが、やむを得ず下船している。彼は戸茂呂(ともろ)岬に向かう急坂を登って行ったが、急いでいたので、灯台を見る余裕はなかったであろう。

 下田で学生と別れた踊り子の一行が、体調のすぐれない踊り子の義姉を、稲取で医者に診せ、漁業の景気が良くなっていた村で、ひと稼ぎしたかもしれない。稲取の医者の評判は、伊豆の各地に広く知れ渡っており、大島でも、知られていた。

 稲取の漁師宿を朝遅くたち、急坂を登って来た一行が、峠の茶屋で休息しながら、半年ぶりに帰る大島を眺めていたとすると、幼子を背負って忙しく立ち働いていた萩原すげは、美しい少女を見かけたであろう。休息後に踊り子が、気品のある灯台を眺めながら、峠を下って行ったとするような記述はない。

 別れを惜しんだ学生が伊東まで同行していれば、もう一つの物語として「東浦路の踊子」が書かれ、峠の茶屋の出来事は、美しい文体で描写されて、多くの読者を引き付けたであろう。

 東京湾汽船の伊豆と大島間の航路は、明治39(06)年に始まったようである。伊豆では伊東だけが大島との経由地になっていたので、踊り子の一行は春に伊東に着き、その年の秋に伊東から大島へ帰って行った。

 【写説】昭和10年頃の東京湾汽船(大島航路)運行表。明治42年および大正9年の地図にも伊東―大島間の航路が記載されている