二十六夜山の山頂にある巨岩を切った月見の祭壇? それとも黒船の見張り場や戦時中の日本軍の監視所跡? ただの石切り跡?

 ■山と人々=月待ち信仰の山? 幕末来航、黒船を山頂から監視

 「江戸時代以降、月待ち信仰として人気を集めた二十六夜講。この行事に関わる二十六夜山が、山梨県2カ所と南伊豆町の計3カ所にある」と信仰の山に詳しい登山家の畠堀[はたけほり]操八さん(74)=神奈川県藤沢市=に聞いた。

 南伊豆の二十六夜山は吉田―妻良[めら]の間にある。町教育委員会発行の「妻良風土記」には本来の名は「間々山[ままやま]」で、「一名、二十六夜山ともいい、陰暦正月と七月の二十六日の夜明けごろ、眉の月に阿弥陀三尊の像が見える信仰があった」と記す。ただ吉田、妻良の古老に尋ねても、この信仰を知る人はいなかった。

 伊豆では伊豆市船原地区などでもかつて行われ、「善男善女が三三五五ご馳走を持って月の見える高所や境内に集まり、月に阿弥陀、観音、勢至の三菩薩が浮かび上がると無病息災などを祈願した」といわれる。

 妻良区が保存する地区内の出来事を記した永代帳の1854(嘉永7)年の項に「米船五艘、横手沖より波勝崎までおよそ四、五里から七里ぐらいまで見え、下田韮山代官出張所に注進した」とある。風土記には「間々山には日和見[ひよりみ]の方角石が据えてあり、村人は毎日頂上で黒船の見張りをした」と記す。

 山頂に今、方角石はない。町史編さん委員長の渡辺守男さん(79)は「妻良の夫婦[みょうと]岬の方角石が二十六夜山にあったものと聞いている」という。波勝沖や二十六夜山沖は帆船時代の航海の難所で「いのちはがちか、まま山か」と歌われ、二十六夜山の山裾(北側)海岸の谷川浜[やがわはま]は今、妻良区などが秘境の海水浴場として売り出している。

 吉田の白鳥神社に関し町史編さん委員の高橋福生さん(71)が解説した。「明治初めウィーン万博のわが国の出展品を積むフランスのニール号が吉田―入間沖で沈没し31人が亡くなった。荷揚げ作業に潜水技術を持つ熊本県天草の人たちが招かれ、安全を願い全員の名前を記した幕が神社に奉納され、今も残る」

 「祭神は日本武尊[やまとたけるのみこと]の妃・弟橘姫[おとたちばなひめ]で、尊の東征の折、海に身を投じて海神を鎮め、姫の櫛[くし]が吉田の海岸に流れ着き、村人が大切に祭った。日本武尊の死後に怨霊が白鳥になり、弟橘姫をしのんで吉田に来た際、松葉を目に刺したことが元で死に、村人が丁重に埋葬した。そのため吉田の海岸には松が育たず、正月も門松は飾らず、椎を使うようになった―と伝承がある」。

 ■登山記=石切場の面影残す 伊豆の秘境、吉田を散策

 国道136号を南伊豆町妻良方面に向かい、立岩を過ぎ、妻良トンネル手前を分岐して伊豆一の秘境といわれる吉田へ。途中のカーブ崖に「岩煙草[いわたばこ]」の小看板があった。道を下ると集落の直前に県が整備した南伊豆歩道(吉田―妻良コース)の入り口があり、その少し上の墓地横に車を止め歩き始めた。

 南伊豆歩道をわずかに行き、枯れ沢を渡って山道に分岐する。地元の人が昔、畑に通った道で、最近はハンターが通る。踏み跡やテープを目印に上ると、少し広くなった鞍部[あんぶ]に出る。山頂は左手のヤブを上がる。道はなく、テープを見失わないように進む。

 山頂には切った大きな平たい石があった。「二十六夜講のお月見の祭壇ではないか」とNPO法人伊豆学研究会の橋本敬之理事長(65)=伊豆の国市=は推測する。だが黒船の見張り場や戦時中には日本軍の監視所もあったとされ、それらの跡? それともただの石切り跡か。橋本さんは「昨年、山頂で二十六夜講を再現しようとしたが、悪天候で断念した」と明かした。

 上ってきたルートを下山、鞍部をそのまま直進して再び上る。踏み跡(山道)やテープを確認しながら進む。大きな石が点在し、江戸時代ごろ石切場だった面影を残す。帰路にも階段状の見張り場のような所があった。

 しばらく行くと徒歩道しかなかった頃、交通の要衝だった吉田峠。左は子どもらが妻良小(廃校、現公会堂)に通った道(今は荒れ通行不可)、直進は立岩方面への道(同)、右手に行けばすぐ吉田集落への車道。

 車道を下ると途中の崖の岩に、恵比寿さんの顔のような彫刻を見つけた。集落まで下った。吉田は昔から18戸だが今は13戸。多くが70、80代以上の超限界集落だ。「以前は田んぼもあり、収穫の頃に台風で潮をかぶるなどでやめ、今はアロエを栽培。漁業は港がなく海藻取りなどが主で、ほそぼそと自給自足の生活をしてきた」と地元古老の仲尾繁正さん(90)。高級な「吉田のり」を産したとの古記録が風土記に載る。

 地区内に小川が4本流れ、昔からウナギが捕れた。「サンショウの幹の皮をたたいて袋に入れ、穴の近くに沈めると刺激を嫌ってウナギが出てきた」と繁正さん。仲尾ヒサさん(87)は「数年前、川で洗い物をしていたらウナギに指をかまれた」。だが今は減った。

 奉納された麻ひもや穴の開いた柄杓[ひしゃく]が入り口の戸につるされ、安産や海上安全の神として信仰を集める白鳥神社で県天然記念物のビャクシンの巨木や幕などを見て車に戻った。

 ■ジオ解説=「間々」は山崩れ地 海岸線は近づけず秘境

 二十六夜山には吉田から山の周囲を回って妻良に抜ける遊歩道も整備されている。ところが遊歩道を歩いてもなかなか大地の成り立ちを探ることは難しい。

 西―南西側の海岸線には高さ100メートルを超える岩壁が続くが、海岸に降りる道や遊覧船などのルートも無く近づけない。まさに秘境とも言える場所で、地質学者も調査に苦労する。

 妻良の堤防付近で見られる縞々[しましま]の地層は海底に降り積もった火山灰などで、二十六夜山をつくる地層より古いものだ。残念ながらここからは二十六夜山をつくる地層は見えない。夏場に妻良から二十六夜山の北側に位置する谷川浜という海岸に行く渡船が運航される。

 渡船で谷川浜へ向かう途中にある鯛ケ崎は、周りの地層を押し分けてマグマが入り込んだ貫入岩体だ。マグマが冷え固まり収縮するときにできる柱状節理が見事で、魚の鱗[うろこ]のようにも見えることがこの鯛ケ崎の名前の由来かもしれない。谷川浜に上陸する桟橋付近には、ごつごつと角ばった岩が目立つ。吉田側でも見られた水冷破砕溶岩だ。

 海中に噴出した溶岩は冷たい海水に触れて急激に冷やされるため、熱ひずみでばらばらに砕けて散り、角ばった岩となっていく。二十六夜山の大部分はこうした水冷破砕溶岩と貫入岩体からできているようである。

 ところで二十六夜山は1974年の伊豆半島沖地震を起こした石廊崎断層の延長部にも位置する。「妻良風土記」によると二十六夜山は間々山ともいい、「間々」は山崩れ地を示すという。実際、伊豆半島沖地震の際にも数多くの崖崩れが発生した。同地震より前の石廊崎断層の活動履歴は分かっていないが、こうした地名の由来の中にも過去の地震や災害の秘密が隠されているかもしれない。

(伊豆半島ジオパーク推進協議会専任研究員・鈴木雄介)

 【写説】二十六夜山の山頂にある巨岩を切った月見の祭壇? それとも黒船の見張り場や戦時中の日本軍の監視所跡? ただの石切り跡?

 【写説】石を切った跡が明確に分かる山頂の別の見張り場などの跡?

 【写説】かつて二十六夜山の山頂にあったという方角石。現在は妻良の夫婦岬にある

 【写説】白鳥神社の山門近くにある県天然記念物のビャクシンの巨木。枝ぶりがすごい

 【写説】ニール号の引き揚げに従事した潜水の技術を持つ白川県(現長崎県)天草地方の人たちが安全祈願で奉納した幕=白鳥神社

 【写説】吉田集落に下る途中の崖に誰かが彫った恵比寿さんの顔のような彫刻

 【図表】登山データ表

 【図表】登山ルート図