西伊豆町田子の今山先端の海岸から撮影した富士山。均整が取れ美しい。赤人はこの富士山に感動したのか?(藤井駒一さんが秋に撮影)

 ■愛媛大名誉教授・細川さん 新説提唱

 田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にそ

 富士の高嶺に雪は降りける

 万葉集に収録されている有名な和歌に、奈良時代の歌人で三十六歌仙の一人に数えられる山部赤人[やまべのあかひと]の「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にそ(ぞ)富士の高嶺に雪は降りける」がある。通説では富士市の田子の浦(田子浦、古来はもう少し西側の現静岡市の興津川河口近くまでをいう)で詠まれたとされるが、実は西伊豆の田子から見た富士山を船上で詠んだ―との新説を唱える人がいる。富士市側からでは富士山が近すぎ、伊豆西海岸から海越しに見た景色だとし、平城京(奈良時代の都)跡で見つかっている堅魚[かつお](鰹節[かつおぶし]の原形、かたうおともいう)を納めた田子の木簡も、後押しする材料の一つ―と主張する。(文、写真 森野宏尚)

 田子の浦ゆ…の歌が伊豆西海岸の田子で詠まれた―と提唱するのは愛媛大名誉教授の細川隆雄さん(68)=兵庫県川西市=。細川さんは京都大農学部、同大大学院農業研究科・博士課程修了後に愛媛大農学部で長く教壇に立った国文学とは無縁の研究者だ。

 農業経済を専門としてきたが、10余年前から鯨塚(イルカを含む体長4メートル以下の鯨類の墓)の調査・研究をしている。九州から北海道まで全国各地の鯨塚を訪ね、鯨塚のシリーズ本を5冊出版し、近く最終となる東海編の3部作も出す予定。その東海編の調査で伊豆を訪れ、伊豆西海岸からの富士山の景色を見て、山部赤人の「田子の浦ゆ…」は富士市の田子浦ではなく、西伊豆の田子から見た景色を歌にした―との思いを強くしたという。

 根拠として細川さんは「富士市では富士山の全貌を見るのに近すぎる。全貌を一瞬のうちに捉えて感動するには、もう少し距離が必要。田子の浦説がある房総半島の鋸南町[きょなんまち]田子の台では遠すぎる」とした上で、次のように持論を展開する。

 「赤人は通説の陸路ではなく、船で移動していたのだろう。『田子の浦ゆ打ち出でてみれば』の『打ち』は、閉ざされたところを打ち破る―との意で、『田子』の『浦』(岩が入り組んだ港)から展望の開けた見晴らしの良い海上に出たと解釈できる。山陰から出た瞬間に雪をかぶった変貌した富士山の全景が目に映った。海上に浮かぶ富士の美しさは抜群で、新幹線の車窓からの比ではない」

 続けて「この歌の生命線は動きで、一つは時間的、もう一つは空間的だ。赤人は短期間のうちに真っ白に変貌した富士山が突然、眼前に現れて、一夜のうちに白くなったと感動し、過去を示す助動詞『けり』の連体形『ける』で時間的変化を表現しようとした。『ける』には感嘆も含意する。作者は移動していて、その中で瞬間的に白く変化した富士山の全貌を捉え、移動を『ゆ』と『打ち出る』で表現しようとした」。

 細川さんは赤人とほぼ同時代の貴族、歌人の田口益人[たぐちのますひと](658~723年)にも着目。2首が万葉集に載り、天皇の命で上野[かみつけの]国守に赴任途中「廬原[いほはら]の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思[も]ひもなし」と「昼見れど飽かぬ田子の浦おほきみの命[みこと]かしこみ夜見つるかも」を詠んだ。「益人も海路を使い、三保松原辺りを通って西伊豆の田子に向かった。富士市側の景観は、奇岩が浮かぶ西伊豆の海には到底及ばず、明るいうちに田子に着きたいが夜になってしまう、と歌った。富士市辺りでは近すぎて夜にならない」と推測した。

 ■徴税遂行木簡出土、堅魚調査で来訪 地元の藤井さんも支持

 「赤人の富士賛歌のキーワードは田子の浦、富士、雪の三つ。田子の浦という地名は富士と同等の重要な意味を持つ。田子の浦は海のシンボル、富士は言うまでもなく山のシンボルで、作者はそのような認識で歌を創った」と細川さん。

 西伊豆の田子とは、どういう所か。古くから鰹を加工し、堅魚の産地として知られた。733(天平5)年などに奈良朝廷に「堅魚」を納めた証しとなる木簡が平城京跡から2点出土している。他方、山部赤人は下級官人だったと推測され、神亀、天平の両時代のみに和歌作品が残され、行幸に随行するなどした宮廷歌人だったとみられる。万葉集歌人事典には「用務を帯び諸方を旅行した」とあり、各地で詠んだ歌が残る。

 「朝廷の命を受けて各地の資源探査や物産、風俗の調査、さらに律令国家体制を貫徹、遂行するため地方豪族の動きを監視し藤原体制を盤石にする目的もあったのだろう。風土記や記紀、万葉集の編さんもその一つで、風土記は各地の産物を掌握して徴税の手段にし、宮廷歌人と称される下級官吏は文化インフラを整備するため和歌を創り、吟じながら各地を旅したのではないか」

 つまり赤人は「国家を運営するのに最も重要な徴税の遂行などのため各地を船で巡り、堅魚の産地の田子に立ち寄り、その際に富士の絶景に感激して歌を詠んだ」と細川さんは推測する。

 西伊豆町大田子の元町職員・藤井駒一さん(74)も地元の西伊豆・田子説を支持し、ずっとそう思い続けてきたという。「この時代、遠方へは陸路より海路を使ったと聞いた。御前崎―石廊崎は最短だが難所のため陸に近い場所を航行、各港には船宿があった。伊豆西海岸からは天候などもあり、富士山がきれいに見えることは少ないなか、田子に宿泊、朝出港し外海に出たとたん山裾がたおやかな富士を目にし、感動を素直に歌にしたのだろう」

 細川さんは「田子で首尾よく一仕事を遂行し、次の目的地に向かい港を出た瞬間、富士山を見た。『打ち出でてみれば』には達成感とともに、次なる仕事への決意の『打ち』でもある。万葉集は単なる文芸作品ではない。政治的意図があり、赤人、益人も単なる歌人、文芸人ではない」と分析する。細川、藤井の両氏は「通説が必ずしも真実とは限らない」と語気を強めた。

 ■通説は陸路の薩〓峠だが… 西伊豆説「考えられない」

 平城京跡から出土の木簡にあった西伊豆町田子の地名は「伊豆国那賀郡丹科郷多具里[たぐり]」で、同町文化財審議会の会長でもある藤井さんは「15世紀に〓胡神社と呼ばれ、17世紀初頭に初めて田子の文字が使われた」。奈良時代の基本史料とされる「続日本紀[しょくにほんぎ]」などで旧庵原郡蒲原町辺りは「廬原郡多胡浦」。いずれも和歌の「田兒[たご]」と合致しない。

 だが幕末に編まれた「駿河志料」には「田子浦は田胡、田籠、田兒と記し、西倉沢(由比、薩〓峠[さったとうげ]の南)より東は蒲原に至るまでの浦をいう」。別の幕末史料「駿河国新風土記下巻」には「江尻(旧清水市中心部)の浜より沼津の浜に至るまでが田子浦。伊豆にも田子村あり、田子浦と称す」とある。

 旧蒲原町には山部赤人と木花開耶姫命[このはなさくやひめ]がご神体の和歌宮神社があり、赤人が近くの吹上げの浜で詠んだため後の時代の人がたたえ、創建したと伝わる。

 富士市文化振興課文化財担当の井上卓哉さん(41)は「西伊豆で詠んだとは考えられない。荒堅魚[あらがつお]の木簡は富士や沼津のものも平城京で見つかっている」と疑問を呈す。ただ地名は読み(音)が重要で、知っている漢字を充てるケースが多々見られたという。

 細川さんは「富士市側は平たんすぎて視界を遮る山がなく、和歌の描写のように突然、富士山が現れる状況は生まれにくい」と話し、現在の同市田子浦であればその通りだが、富士山と和歌を研究する富士宮市の県富士山世界遺産センター学芸課の田代一葉准教授(39)は「国文学研究の成果では薩〓峠を越える際に詠んだ―というのが一般的見方」と指摘した。

 実際、薩〓峠を歩くと突然、富士山が出現する場所があるほか、有名な歌川広重の東海道五十三次「由井 薩〓嶺」の浮世絵風景画もその風景を彷彿[ほうふつ]させる作品である。東京大名誉教授の久保田淳氏は「富士山の文学」(文春新書)の中で「薩〓峠を越えて現在の西倉沢の南に出てきた時に、いきなり目に飛び込んできた富士山の大きな山容を仰ぎ見た感動の表現であるといわれている」と著す。

 また田代准教授は「細川さんが言うように富士市側からでは富士山が近すぎる―とは感じない。長歌の内容からも遠い所から詠んでいるようには思えない。『振り放き見れば…』は『振り仰いでみる(見上げる)』というような意味で、近くで見たから詠めた」と解説した。一方で藤井さんは「田子からの富士山が一番美しく、赤人の心に響いたのではないか。通説とは逆に東国から都に向かっていたとも考えられる」と重ねて西伊豆説を推した。

 ■謎多い歌人・赤人 歌の詳細不明

 万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれたわが国最古の和歌集。4500首を超える歌が収められており、皇族や貴族、中・下級官人、また防人[さきもり]など庶民の歌も含まれる。

 山部赤人は柿本人麻呂とともに歌聖とたたえられ、一般的に自然の風景を描き出す叙景歌に優れているとされ、万葉集に長歌13首、短歌37首が収録される。赤人の人物像のほか、「田子浦ゆ…」の和歌についても詳細は分かっていない。

 有名な「田子の浦ゆ…」の原文は「田兒之浦従打出而見者真白衣不尽能高嶺尓雪波零家留」と全て漢字で著す。ただ赤人がこの漢字を使ったかは不明だ。

 素直な感情を詠むこの和歌は、同じく赤人による崇高な富士山をうたう長歌「天地[あめつち]の 分(か)れし時ゆ 神さびて 高く貴[たふと]き 駿河なる 富士の高嶺を 天[あま]の原 振り放[さ]け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(去)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎゆかむ 富士の高嶺は」に対する反歌である。

 百人一首にある「田子の浦に打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」は、藤原定家らが撰者[せんじゃ]の新古今和歌集(鎌倉時代初期編)に収録され、赤人の元歌を後に、だれかが改変(そう解釈)したとされる。

 細川さんは「『白妙の』という美辞麗句で、権力の永続性、高貴さを詠んだ観念的な詩に変えてしまった。赤人の生き生きとした写生詩からはほど遠い」と手厳しい見方をする。

 【写説】西伊豆町田子の今山先端の海岸から撮影した富士山。均整が取れ美しい。赤人はこの富士山に感動したのか?(藤井駒一さんが秋に撮影)

 【写説】薩〓峠(静岡市)からの富士山。通説では赤人は、ここから見た富士山を詠んだといわれる。現在、眼下は交通の要衝(同市の中西敬一さん提供)

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