■観測データなし、近世以前の地震 東大で地震史料シンポ 金子さん(伊東市教委)招かれ発表

 歴史学者と地震学者らが協力して観測データのない近世以前の地震の姿を日記などの文献や遺物の史・資料から探り、長期的な予測も含めた地震防災に役立てる取り組みが近年進む。第一線の研究者らが集い11月末、東京大で「地震史料シンポジウム」が開かれた。伊東市教育委員会・学芸員の金子浩之さん(58)=日本考古学協会会員=も招かれ、宇佐美遺跡の発掘調査で確認された津波堆積物から15世紀末の相模トラフ巨大地震(明応4年関東地震)の実像、江戸時代の同市内の1万基を超える墓石調査で明らかになった元禄津波被害の詳細な実態を発表した。ここ数年来、金子さんが提唱する戦国時代初期の武将・北条早雲(1456~1519年)は2度の巨大地震の津波被災に乗じて小田原や伊豆攻略を成し遂げた―とする考えを後押しする研究者の発表もあった。(文、写真 森野宏尚)

 金子さんは伊東市宇佐美の都市計画道路工事の施工前に実施した宇佐美遺跡の発掘調査(1987~2006年)で、中世の津波堆積物を発見した。宇佐美コミュニティセンター前の道路で、海岸から約200メートル離れ、約50センチ掘り下げたところ灰色砂質粘土層を検出した。同地層中に陶磁器片597点も含まれていた。

 「当初は何か分からず、津波の専門家に調査を依頼したところ海底の堆積物と震災がれきが陸上に運び込まれて生じる津波堆積物と確認された」と金子さん。その根拠は(1)礫[れき]、木片、陶磁器などの小破片が散在(2)遺物に武具、古銭なども含まれ、性格上の脈絡がない(3)破片同士の接合がほぼなく、割れ口が比較的新鮮で長期にわたり水中でもまれた遺物ではない―などだ。

 標高7・5メートルほどの場所で、最低でもこの高さの津波(10メートル程度か)が襲来し、発生年代は陶磁器片から15世紀末と推定される。

 従来、この時期の大地震は「明応地震」が一般に知られ、鎌倉大仏殿を流出させたとする1495(明応4)年の関東地震(相模灘が震源域、マグニチュード8クラス)、浜名湖の今切口を形成したとされる98(同7)年の南海トラフ地震(M9クラス)だ。

 ところが近年、わが国を代表する複数の歴史地震学者らは当時の日記「鎌倉大日記」に記された95年の地震は、3年後の南海トラフ巨大地震の誤記だとし、95年の地震そのものを否定する論文が発表され、教科書からも消えた。

 だが金子さんは「宇佐美で発見された地震堆積物地層は一部学者らの論と真っ向から対立するが、相模トラフを震源とする地震は実際あったことを裏付ける証拠」と自信をのぞかせる。

 近い将来、発生が予想される南海トラフ地震(連動)の津波予想では四国―伊豆西海岸や南部は高い(おおむね10メートル超、下田市の狼煙崎[のろしざき]は33メートル)が、伊豆東海岸は突き出た半島が波をブロックするため伊東港で4・4メートルとされる。これに対し相模トラフ地震の津波予想では宇佐美・大崎が17メートルと高い。

 このことから金子さんは「宇佐美の津波堆積物は南海トラフ地震の津波とは考えにくい。相模トラフ地震の津波と考えるのが妥当だ」と結論付けた。今回、国内トップレベルのシンポジウムで発表の機会が与えられたのは、金子さんの研究が評価され、認められた証しだ。

 ■江戸期1万3千基の墓石調査 元禄津波の犠牲者203基、258人を確認

 伊東市内の石造物調査にも携わった金子さんは、その中で江戸時代の墓石約1万3千基を調べ、1703(元禄16)年11月22、23の両日の日付を刻んだ元禄地震・津波犠牲者の墓石が203基(犠牲者戒名258人)あることを確認した。この年の墓石数は平均年の5倍近くに上り、突出して多かった。宇佐美の名主の家では一家7人全員が亡くなり、成人女性の犠牲者が全体の半数ほどを占めるなど詳細な被害状況が浮かび上がった。

 一般市民3人の協力を得て2000年から5カ年かけ、寺院41カ寺、そのほかの墓地51カ所にある13371基について全て調査した。現在の伊東市域は当時、16カ村、人口は8千人ほどだった。行蓮寺(宇佐美村)、仏現寺(和田村、2基)、恵鏡院(川奈村)の4基の供養塔から犠牲者数は計743人とされ、この数字は知られていたという。

 個々に建立された墓石は経済的に余裕のあった家と見られ、犠牲者の構成は成人男性59人(22・8%)、成人女性132人(51・1%)、童子・童女38人(14・7%)、幼児21人(8・1%)、不明8人(3・4%)の内訳。「海岸部の寺などに多かったものの、山間集落にも点在し、商用などで沿岸にいて犠牲となった人もあったようだ」と金子さんはみる。

 宇佐美村の名主・荻野家(初津)では当主のほか妻(36)、長女(19)、長男(13)、次女(10)、三女(9)、次男(7)が犠牲になり、当主の六郎左衛門は即死せず2日間生き延びたと墓石にあった。また金子さんによれば「同家の家産(財産)目録に『鑓[やり]、長刀、田中より取り出し申候』の一文があり、字田中は現在の海岸線から300~400メートル離れており、標高は13~17メートルで、家ごと流されてここまで到達した」と分析する。

 仏現寺には46歳の母親と24歳、18歳、14歳の3人の娘が3基の墓に同じ死没年月日で供養されていた。父親は助かった。「墓石の戒名には吸江、泡、浸屋、波、合水、大振動波など津波を連想させるものもあった」と金子さんは解説した。

 ■津波を利用した早雲 小田原奪取と南伊豆進攻、戦国武将に新たな一面

 室町時代の伊勢宗瑞(通称・北条早雲)は戦国時代の初期に相模や伊豆を統治し、戦にたけた武将との評価が高いが、金子さんは津波堆積物の存在から早雲が15世紀末に発生した2度の明応地震に伴う大津波を利用して小田原奪取と西・南伊豆進攻を図り、戦国大名への道をのし上がっていった―と従来とは違った早雲像を浮き彫りにする。東京大地震火山史料連携研究機構・地震研究所の片桐昭彦さんもシンポジウムで、早雲の小田原城攻略は最初の明応地震を認めた上で発生年と重なる―との論を発表し、金子説を支持した。

 金子さんによれば、1495(明応4)年に発生した地震について文献史料では「鎌倉大日記」が「明応四年 乙卯 八月十五日大地震洪水鎌倉由比濱海水至千度檀水勢大仏殿破堂舎屋溺死人二百余」や「九月伊勢早雲攻落小田原大森入道」、紀伊半島南部の熊野神社の社家の記録である「熊野年代記」に鎌倉大地震と書き留められ、98(明応7)年の地震については「諸国大地震」「浦々浪入」「那智坊舎崩」「堀内火事」などと記すという。

 一方、早雲は93(明応2)年に韮山の堀越御所に攻め込み伊豆征服戦を開始。2年後に小田原を手に入れ、97(明応6)年末までに宇佐美城、柏窪城(伊豆市)、鎌田城(伊東市)、狩野城(伊豆市)などを落とし、宇佐美氏、狩野氏、伊東氏を破って伊豆北部を手に入れ、翌年には河津城や深根城(下田市)を陥落させ、伊豆征服戦を完結させた。小田原、伊豆西・南部に攻め入ったのは津波の直後だった。

 金子さんは「西伊豆・松崎などには清水から兵船10艘で向かい武装上陸したが、津波で壊滅的な被害を受け、元気な者は山に逃げ、けが人ばかりで抵抗できない被災地を次々と占領した」「小田原奪取の際は、多数の牛の角にたいまつを結び付け小田原城に攻め入ったとされるが、これは作り話的な奇計だと思われる。牛や赤牛の伝説は津波(土石流被害)を比喩して使われることがあり、荒れ狂う水を牛の暴走に見立てたのだろう」と推測する。

 片桐さんは「早雲の小田原攻略は明応5年以降―との近年の研究もあるが、根拠とする『勝山記』よりも『鎌倉大日記』の方が信頼できる」と明言。加えて「文献史料が少ない中世の地方で発生した地震を明確にしていくためには(1)考古学はじめ地質学、地理学など他分野との共同研究が不可欠(2)先入観にとらわれず都合よく使われてきた年代記を改めて史料学的に分析することが重要」と説いた。

 ■迫る南海トラフ地震 連動と100~200年周期

 相模トラフを震源とする関東地震が1495(明応4)年に発生した可能性が高いことが宇佐美の発掘に伴う津波堆積物から明らかになったことを受け、南海トラフ地震との連動性や、おおむね100~200年の周期で発生していることに注目が集まる。

 南海トラフ地震は分かっている684年の白鳳(天武)地震以降、繰り返しマグニチュード8クラスの大地震が起きている。これらの地震は関東地震と南海、東南海、東海の南海トラフ地震や東海トラフ地震が互いに刺激し合い、同時または若干の時間差(数年以内)で連動して発生するケースが見られる。

 金子さんが調べたプレート型巨大地震の年表=上=を参照すると、関連性も見えてくる。近年最後の南海トラフ地震である昭和東南海地震(1944年)、昭和南海地震(46年)から既に70年が経過しており、南海トラフにおける次の大地震の可能性が高まっている―と専門家は指摘する。

 ■文理融合の研究に期待

 地震史料シンポジウム「地域史料から地震学へのアプローチ」は東京大地震火山史料連携研究機構、地震・火山噴火予知研究協議会 史料・考古部会が主催、東京大史料編纂[へんさん]所、東京大地震研究所が共催して開かれた。同機構は昨年4月に東大地震研と史料編纂所によって設立された。

 観測データのない時代の地震を研究するには地形・地質学のほか考古学、史料に基づいて過去の人々の生活の事象を研究する歴史学の三つの融合が求められる。史料に書かれたことを正しく読み取るには熟知した歴史学者の力が必要で、地震学者との協力が不可欠だという。

 人文社会学系と自然科学系では研究手法、成果の形態、評価の考え方などさまざまな観点が異なり、東大地震研の佐竹健治さんは「東大の中でも文理融合の研究はほとんどない」とし、史料の共有データベース化などを進め、防災につなげる取り組みが注目、期待されている。

 【写説】写真の中ほどの黒い地層の上、右端に刺さるパイプ下まで(点線内)が津波堆積物の地層。右図は断面模式図で写真とは一致しない。図では斜線部分のVと4が津波堆積物地層

 【写説】元禄地震津波で犠牲になった母親と娘3人を供養する3基の墓石(手前左と後ろの2基の計3基)=伊東市物見が丘の仏現寺

 【写説】シンポジウム終了後、墓石調査に多くの質問があり、答える金子さん(中央)=東京大・福武ホール

 【写説】早雲に火を放たれた河津城では山上で水がなく、米など穀物で火を消したと伝わる。裏付けるように焼けた米や入れたかめが大量に割られ出土した

 【写説】鎌田城(伊東市)の発掘調査では早雲に攻められ、火災の痕跡も見つかった

 【写説】地震史料シンポジウムで発表する金子さん=東京大・福武ホール