東日本でも最古級の極めて重要とされる前方後方墳「高尾山古墳」=沼津市東熊堂

 ■高尾山など相次ぐ重要古墳発見―北伊豆・東駿河

 大規模な墳墓は存在しないとみられてきた伊豆半島やその周辺部だが、瓢箪山[ひょうたんやま]古墳の確認前にも半島付け根付近一帯では、古代史を塗り替えるような重要な前方後方墳や前方後円墳の発見が相次いだ。沼津市東熊堂[ひがしくまんどう]の高尾山古墳や三島市谷田の向山古墳群16号墳だ。これらは瓢箪山古墳よりも古い時代に造られており、両古墳が築造された時代や当時の社会背景などをひも解かない限り、瓢箪山古墳の実像に迫ることはできない。(文、写真 森野宏尚)

 ■古墳時代中~後期から前期に

 高尾山古墳は出土した土器などから古墳時代前期前半の230年ごろ築造、250年ごろ埋葬されたとされる前方後方墳。墳丘長は約62メートル。中国の魏志倭人伝に登場する倭国[わこく]の邪馬台国女王・卑弥呼[ひみこ]が活躍した時代だ。

 墳丘上(埋葬施設上面)や周溝(墳墓周囲の溝)から土器が大量に発見され、それらは県東部で作られた「大廓式土器[おおくるわしきどき]」のほか、北陸系や近江系、東海西部系、関東系などと称される「外来系土器」だった。一方で大和を含む畿内系の土器は、ほとんど含まれていなかったが、広く他地域との交流があり、盛大な葬送の儀が繰り返し行われ、被葬者は大きな権力を持っていたことが想像される。

 沼津市教育委員会が発行した同古墳発掘調査報告書(2012年)の中で大塚初重・明治大名誉教授(92)は「被葬者は2世紀末から3世紀初頭に活躍した後代の駿河国・伊豆国に相当する地域に君臨した首長だったと思われる。この場所は狩野川水運、海路、陸路の古代交通路の拠点。経済上、政治上極めて優位な地域で、その象徴的存在が高尾山古墳だ」としている。

 一部研究者は高尾山古墳が大和王権の象徴である前方後円墳ではなく前方後方墳で、畿内系の土器が出ていない点などから被葬者は大和王権に対峙[たいじ]する東海西部を中心とした勢力「狗奴国[くなこく]」(九州説もある)の影響下にあったと見る向きもある。大塚さんは「大和王権の首長たちの中にも前方後方墳の墳丘に埋葬された人物がおり、前方後円墳が主流だった墓制に抗するように前方後方墳という墓丘形態にこだわる首長集団が存在していた」と記す。

 元愛知県埋蔵文化財センター副センター長で、NPO法人・古代邇波[にわ]の里・文化遺産ネットワーク理事長の赤塚次郎さん(64)は「濃尾平野に起源がある前方後方墳は東進し、高尾山古墳を経て東北南部(仙台平野)まで確認されている。2世紀末の環境変化で弥生文化が衰退、3世紀前後に落ち着きを取り戻し、地域社会を再生した転換期最初のスルガの王が高尾山古墳の被葬者。古墳所在地は後の駿河国駿河郡駿河郷で、まさにその中心地だ」と説く。

 大塚さんは「周辺の愛鷹山山麓にはガラス勾玉[まがたま]の鋳型が発見された遺跡があり、それら遺跡群の北限を画するように幅・深さ約2メートルのV字型を呈する空濠[からぼり]が全長2キロ以上にわたり貫く」と高尾山古墳以前の権力者の存在を示唆。弥生時代後期後葉から古墳時代出現期にかけて高尾山古墳の成立を可能にした社会構造が既に出来上がっていたと指摘する。

 ■3古墳互いに視界内? 高尾山古墳、浮島沼や田方を一望

 高尾山古墳について沼津市教育委員会文化振興課の主任学芸員・小崎晋さん(42)は「国指定史跡を目指しており、市としてはいずれ史跡公園として整備したい考え」という。

 古墳上を都市計画道路が通過予定で取り壊しの議論もあったが、最終的にトンネルと橋で古墳を回避、保存する方針が固まっている。

 同古墳は愛鷹山から南側に延びる尾根の末端上に立地し、当時、治めたとされる富士市側から入り込む浮島ケ原低地(浮島沼)一帯や狩野川周辺などの田方平野も視界に入る場所だ。高尾山、向山16号墳、瓢箪山の3古墳は、それぞれ見渡すことができるか。

 古墳上には高尾山穂見神社と熊野神社が鎮座してきた。また同市の神明塚古墳、子ノ神古墳の墳丘上にも神社が祭られ、地域の人々に「古[いにしえ]の権力者の墓」とそれとなく伝わり、後の住人が「神聖な場所」として神社を創建、信仰の対象にしてきたケースは各地の古墳で見られる。

 ■畿内系多い狩野川周辺 高尾山は少なく別ルート―外来系の土器流入

 古墳から出土する土器などにより、築造年代や交易の状況を知ることができる。古墳時代前期、高尾山古墳をはじめとした以西の富士市側と、向山16号墳や瓢箪山古墳が所在する狩野川流域の田方平野では出土土器から流入ルートに差異が認められ、両地域は近接しているにもかかわらず交流地域に違いのあることが指摘されている。

 高尾山古墳以西の沼津市―富士市域には、近世まで駿河湾と富士川河口から狩野川河口まで続く田子浦砂丘(千本松原付近)に挟まれた浮島ケ原低地(浮島沼)があり、大雨や高潮で一大湖沼となった。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて浮島ケ原低地を囲むように多くの集落が存在し、ここから出土する外来系土器(地元以外の他地域の土器)は東海西部系や近江系、北陸南西部系が多く、畿内系が少ない。

 これに対し、狩野川下流部の沼津市や清水町はじめ田方平野一帯の集落からは畿内系や東海西部系、北陸系土器が多く出土する。県埋蔵文化財センターの岩本貴さん(47)は「恵ケ後遺跡(清水町伏見)や韮山城内遺跡、山木遺跡は畿内系土器の出土量が多く特筆される。狩野川合流地点から御殿川(三島市など)をさかのぼるかのように出土例がある」とし、県東部地区の外来系土器の流入ルートを大別して次の三つに分類する。

 畿内系土器の出土量が目立つ狩野川流域は船により駿河湾から狩野川をさかのぼる狩野川ルート、畿内系土器の出土量が少ない高尾山などは浮島ケ原低地を船で移動したり、富士市から沼津市を経て三島市まで至る現在の根方街道の陸路を使ったりした浮島ケ原ルート、潤井川や富士川を北上して甲府盆地に至る富士川ルート。浮島ケ原と富士川の2ルートは共に吉原湊(港)を玄関口にする。

 高尾山古墳一帯は多くの交通ネットワークの拠点だったと専門家は口をそろえ、富士市埋蔵文化財調査室・文化財担当の佐藤祐樹さん(38)も「この地域ネットワークの結晶として古墳時代前期前半に高尾山古墳の築造があった。しかし前期後半になると、神明塚古墳、向山16号墳、瓢箪山古墳の築造をもって、いち早く畿内を中心とするネットワーク(大和王権)に参画し、東海西部系の姿は徐々に見えなくなってくる。高尾山古墳の築造は、その前段階における激動の時代の証しでもある」と分析した。

 ■東限の竪穴式石室 大和王権の影響受ける―向山16号墳

 向山古墳群は昭和50年代初め、市立向山小の建設に伴い見つかった。前方後円墳2基、円墳14基の計16基(過去の破壊など考慮すると最大20基程度?)が、長さ約800メートルにわたり直線的に分布。公園化され13基が見学可能だが、最重要とされる前方後円墳の16号墳は後に発見され、園地外の西端の丘陵登り口にある。

 1・2号墳(円墳、直径22~17メートル)は運動場に位置し、調査記録を残して取り壊された。最北端の前方後円墳の3号墳は墳丘長21・5メートルと小規模。その南側に円墳(直径28~10メートル)が十数基縦列する。鉄剣、鉄刀、鉄鏃[てっぞく](鉄製のやじり)などが出土し、遺体を入れた木棺を墳丘の中に埋めた木棺直葬(3号墳など)の構造。4世紀中ごろ~6世紀前半の築造とみられ、1999年に県史跡の指定を受けた。

 そのような中、向山小・講堂側の丘陵西南部端で16号墳が確認され、2014年度までに8回の調査を実施してきた。土地の所有者である造園業の「愛樹園」社長・小林孝さん(87)=三島市中=は回想する。

 「小学校を造る時、市にここにも古墳があるのではないかと申し入れ、市が調査したが何も出ず、古墳ではないとのことだった。昭和30年代に買い求めた同所の約4千平方メートルの土地(雑木林)を地形保存を条件に、市に寄贈する考えでその趣旨を石に記して埋めるため(後円中央の墳丘部を)掘ったところ薄い平らな石(竪穴式石室上部)が出てきた。再調査を依頼すると古墳と確認された」

 発掘調査で墳丘長68・2メートルと分かり、調査の指導に当たった筑波大の滝沢誠准教授(55)は「出土物は少量の細かく砕けた土器片だけだったが、それらから古墳時代前期前半(3世紀後半ごろ)に造られたとみられる。従来、静岡市の袖木山神古墳を東限として認識されてきた太平洋岸における竪穴式石槨[せきかく](室)の分布がさらに東に拡大し、初期大和王権の東方への影響力を評価する上で極めて重要な古墳」。さらに「最初に16号墳、続いて消失したやや規模の大きい円墳が造られ、北上する形で数を増していった」と解説した。

 富士宮市教育委員会・埋蔵文化財センター所長の渡井英誉さん(59)は「高尾山古墳と築造年代は、それほど変わらない。出土土器の年代が古く、埋葬施設が新しい。この問題をどう解釈、解明していくかが課題」と提起した。16年度に県史跡の追加指定を受けた。

 ■早期に有力権力者存在

 高野山古墳や向山古墳群16号墳、瓢箪山古墳が古墳時代前期の3世紀中期~4世紀前期に築造された可能性が高まったことで、北伊豆や沼津地区(旧駿河国、東駿河)の古墳出現期が従来の古墳時代中期~後期から同前期への見直しが迫られている。

 これまでに見つかっている神明塚古墳(沼津市大諏訪)や子ノ神[ねのがみ]古墳(同市西沢田)は5世紀後半~6世紀初頭の築造とみられ、このことから北伊豆地区における古墳出現期を古墳時代中期~後期としてきた。だが神明塚古墳は1980年代の測量調査に続き、2003年に再調査が実施され、携わった滝沢誠・筑波大准教授は「造営年代は古墳時代前期にさかのぼるのが妥当だ」との見解を示す。

 従来、大きな規模の古墳は存在しない―と見られてきた北伊豆や東駿河だが、新たな発見が相次ぎ、古墳時代の早い時期に大和王権などの影響を受けた有力な権力者が存在した可能性が高まり、同地への注目が一気に高まっている。

 富士宮市教育委員会・埋蔵文化財センター所長の渡井英誉さんは「東駿河(北伊豆)の古墳出現期の見直しという問題が浮上してきた」と提言する。

 【写説】東日本でも最古級の極めて重要とされる前方後方墳「高尾山古墳」=沼津市東熊堂

 【写説】公園化された向山古墳群のうち、最北部に位置する小規模な前方後円墳3号墳の木棺を模した展示=三島市谷田

 【写説】県東部地区の古墳時代の主要古墳変遷(滝沢准教授提供の資料をもとに本社で作製)

 【写説】白い車の右側のこんもりしたところが向山16号墳。指さすのは発見者で土地所有者の小林孝さん=三島市谷田