先ごろ、日本弁護士連合会が福井で人権擁護大会を開いた。第一日は死刑廃止シンポジウムで、この時、瀬戸内寂聴さんは死刑反対のビデオメッセージを頼まれた。彼女がかねてから死刑反対論者として聞こえていたからだ。その中で「殺したがるバカども」という一句が入り、これが後でネット上で大騒ぎになり非難の声が上がった。瀬戸内さんがこの時のことを述懐した記事をA新聞に載せていたのだが、とっさに「物言へば唇寒し秋の風」の芭蕉の句が過(よ)ぎったという。そして「94歳にもなる、まして尼の身の口にする言葉でないと深く反省」していると書いてあった。これを読んで苦笑に堪えなかったが、しかし瀬戸内さんともあろう人が「深く反省」はちょっと似合わない。あれだけ年をとっても自分の思ったことを、めげずにやってきた人が、ひどく弱気なことを言うなあと思った。

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 率直に思ったことは遠慮せず、ネットだの何だのにビクビクしないで口にしたらいい。それこそが「老尼」の心意気であり、「花」であり「老尼の身が恥ずかしい」の、反省など彼女の口から聞きたくない言葉だった。

 昔の禅僧の伝記など見ても、例えば一休が、彼は88歳で死ぬまで言いたい放題、やりたい放題、ズケズケと肺腑(はいふ)をえぐるような語りの連続だった。彼は禅門の腐敗に対して、坊さんたちの表と裏の逆立ちした現状を容赦なく斬った。詩集「狂雲集」、よくもあのような表現を臆面もなくできたものだ。普通に言えば、宗教者にあるまじき極道の骨頂とも言うべき言辞を、本人は面白くてたまらぬとばかり羅列しているのである。

 これに対して最近の日本人の発言は臆病風に吹かれたような、煮えたか煮えぬか分からぬ、所在不明なものが多い。政治家から全ての言論人に共通した傾向だ。情報の網に引っかかって騒ぎ立てられるのを恐れてのことだろうか。そんな中で瀬戸内さんは、自分の言いたいこと、やりたいことをやってきた。その人がオトナシクなっては格好がつかぬ。

 現在ではバカという語は「馬鹿」と書くが、もともとは梵語(ぼんご)で「莫迦」と書き「無知」の意で、古くは僧侶たちの隠語で、坊さん同士お互いに、浴びせたり浴びせられたりの日用語だったのだ。禅宗で「喝(かつ)」という大声を出して相手を叱る語があるが、宗教者は曲がったことを放置し、悪に目を背けてはならない。進んで大声出して、場所柄を問わず、相手を叱責(しっせき)しなければならないのだ。それでこそ捨て身の宗教者と言うべきであろう。「物言わぬは腹ふくるるわざ」に辛抱する必要はいささかもない。言いたいことは腹蔵なく言い放ち、それで胸がスッキリ、これが仏の境地ではなかろうか。

 仏像にもいろいろある。如来、菩薩から始まって、不動明王、四天王、仁王さん、エンマ様、大口開けて睨みつけ、邪鬼を踏みつぶす。四六時中、怒鳴り散らしているのが仕事だ。一瞬も顔をゆるめては値打ちがなくなる。人間の内外にうごめく悪を粉砕する。金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)ともなれば、あらゆる不浄を食い尽くしてしまうという迫力を持っている。

 仏の世界も、人の世の中と同じで、温和でニコニコ、悟りすましてばかりはいられないのかもしれない。

(近世文学)