勝海舟が揮毫、仙台藩の儒学者岡千仞が撰文した三餘顕彰碑=松崎町那賀の西法寺境内

 土屋三餘=余=(1815~66年)といえば、松崎町にとっては中川三聖人の一人であり、幕末から明治にかけて多くの人材を輩出した教育功労者といえる。三餘は幼少時に浄感寺の本多正観に学び、江戸に出て東条一堂の門下生となり、同時に昌平黌[しょうへいこう]の門下生と交流した。

     ◇……………………◇

 さまざまな学問を学び、1839(天保10)年に帰郷し私塾「三餘塾」(当初は竹裡塾)を開講し、依田佐二平やその弟の勉三をはじめ多くの門弟を育てた。この背景には地元江奈陣屋役人が農民を苦しめている様子を見て、農民自身が知徳を磨いて武士階級と対抗できるようにと考えたからだという。

 このため開塾するにあたり、三餘は身分の上下の差の解消と共に、業間の三餘を説いた。三餘とは「書ヲ読ムハ当ニ三餘ヲ以テスベシ。冬ハ歳ノ餘リ、夜ハ日ノ餘リ、雨ハ時ノ餘ナリ」のことで、中国魏の董遇[とうぐう]の言葉と言われる。このため本名は宗三郎であったが、土屋三餘と呼ばれるに至ったのである。

 三餘は塾生と共に早朝起床し、塾生の部屋には孔子門下の四科と呼ばれる徳行、言語、政事、文学の名を付けた。三餘の生家には三餘学舎趾碑が建てられ、そこには姑息吟(修学の心得)と莫懶歌[ばくらいか](日々実行の心得)が刻まれている。これを三餘は塾生に朝夕吟唱させ、姑息と怠惰を戒めた。

 三餘の門人たちは700人を超え、とりわけ依田佐二平と仁科村(西伊豆町)の藤野圭二、青野村(南伊豆町)の大野恒哉は三餘塾の三羽烏と呼ばれ、塾頭などを務めた。依田佐二平は大沢塾を開き教育を広め、藤野圭二は医師となり、西伊豆の医療を支えた。大野恒哉は豆陽中学校(現県立下田高)建立に尽力するなど、その後の賀茂地域を支えたのである。

 82(明治15)年に三餘の17回忌法要が営まれ、その後1901(同34)年に門人たちが三餘顕彰碑を建立するに至るが、この題字を勝海舟が揮毫[きごう]し、仙台藩の儒学者岡千仞[せんじん]が撰文[せんぶん]している。全国的にも著名ゆえ、このような人物が石碑建立に関係したのである。(県立韮山高校長、伊豆の国市文化財保護審議委員会副会長)

 【写説】勝海舟が揮毫、仙台藩の儒学者岡千仞が撰文した三餘顕彰碑=松崎町那賀の西法寺境内