嵯峨実愛日記 第三(原題 続愚林記)=国会図書館蔵

 ■稲取の貢献と神子元島灯台

 神子元島灯台は、明治3(1870)年11月にR・H・ブラントンの指揮によって建てられた。この灯台を建築する時、石材の継ぎ目をセメントで埋めている。このセメントの材料として、稲取で採取した火山灰が使われた。伊豆のどこからでも火山灰は採取できると思うが、稲取には簡単に多量の火山灰を採取できる場所があったのであろう。稲取で火山灰が多く堆積している場所は、河津町との境の朝日台辺りであるから、この付近から採取して、藤さん浜(藤三払防波堤は未完成)から積み出したのではなかろうか。

 この時造られた速成セメントは、日本最初のものであり、セメントによって、その後の日本の建築は大きく発展しているので、稲取は建築界にも貢献したことになる。

 なお、神子元島灯台の点灯式には3人の政府要人が出席している。ほぼ全ての資料には、太政大臣三条実美、大久保利通、木戸孝允とされているが、三条実美とあるのは、正三卿 正親町三条実愛(嵯峨実愛)の間違いであり、本人の日記(嵯峨実愛日記=原題・続愚林記)および同行した2人(大久保利通、木戸孝允)の日記に、点灯当日は海が荒れていて上陸できず、神子元島に上陸したのは翌日であったことなど、当時の様子も記述されている。

 大隈重信と記述されている資料もあるが、重信は体調不良のため同行していないことも、孝允の日記に書かれている。

 萩原すげは、灯台守になる講習のために、初冬の8日間を下田まで通っている。その間に神子元島へ渡っているので、この時に年齢の近かった灯台守の妻から、苦労話を聞いたかも知れない。

 すげの兄も息子(戦死した次男)も短歌の素養があったので、後年になってすげは、この妻の情景を詠んだ、若山牧水の詩「その窓にわがたづさえし花を活け客をよろこぶその若き妻」を知り、懐かしく思い出していたであろう。

 【写説】嵯峨実愛日記 第三(原題 続愚林記)=国会図書館蔵