当時の写真に目を通す山本さん=宇佐美の自宅

 きょう15日は「終戦の日」。日本の国内外で民間人も含め、多くの犠牲者を出した戦争の終結から73年を迎える。年を重ねるごとに記憶が薄らいでいく中、伊東市内に住む戦争を体験した男性2人に、改めて戦争の怖さ、悲惨さを語ってもらった。

 ■宇佐美の山本 信雄さん(94) 「もっと早くやめていれば…」

 宇佐美の元塗装業山本信雄さん(94)は、20歳の時に徴兵検査を受けて合格、1944年11月から鹿屋(鹿児島県)で海軍の航空隊員として新兵教育を受けた。「(射撃と爆撃を行う)射爆の練習生だった。沖縄が占領されると空襲は毎日。上空で空中戦もあり、落ちてきた弾が危ないので、防空壕(ごう)に逃げる日々だった」と振り返る。血だらけの兵士を病院に運んだこともあったという。

 空襲で近くに爆弾が落ちたこともあったが、塹壕(ざんごう)に飛び込み難を逃れた。「近くに爆弾が落ちる時はササを揺するような音がして、その後に大きな爆発音が響く。このササの音を聞くと『だめだろう』と思ってしまう」と話す。

 基地から特攻隊を見送っていた時、飛び立てない特攻機を目撃した。「爆弾を抱えたまま飛び立てず、まっすぐに突っ込んで爆発した。それほど飛行機はひどいものだった」と述懐する。特攻機が沖縄に着く前に打ち落とされていたことも耳に入っていて「これでは勝てないと思った」という。松山市移動後に空襲を経験したのは一度、終戦は愛媛県内で迎えた。「教わったのは20ミリ機関銃の操作だけ。日が浅かったので戦地に行かなかったんだろう」と推測する。

 「日本は早いうちから負けていた。もっと早く戦争をやめていれば沖縄戦、広島、長崎への原爆投下はなかった」と話し、多くの犠牲者を悼む。地元の峰地域で、戦争経験者は1人だけになってしまった。「戦争なんて二度とするもんじゃない。平和でいたい」。静かに語った。

 ■八幡野の鈴木 薫さん(92) 「苦労、少しでも分かって」

 八幡野の元教員鈴木薫さん(92)は終戦の1年前、浜松の師範学校の学生だった時に清水市(現静岡市清水区)の工場に学徒動員された。そこで空襲を体験した。

 「寝ていてふと目を覚まして外を見たら、気持ちの悪い明るさだった。照明弾の明かりだったと思う。慌てて飛び起きた。高台目指して逃げる途中、背後から『ひゅうう、ひゅうう』という音が追い掛けてきた。焼夷(しょうい)弾だった。地獄から閻魔(えんま)が迎えにきたようだった」

 終戦間近に召集され、三重の部隊に配属された。「すぐに遠州灘の海岸警備を命じられた。ところがスコップ1本も持たされない。宿舎になった海岸近くの学校の校舎で毎日を過ごした。玉音放送は近くの農家で聞いた。日本が負けるとは思っていなかったが、特に驚きはなかった」

 戦後は市内や近隣の小学校で教えた。子どもたちに戦争の話はほとんどしなかったという。「弁当がサツマイモ1本だけだったり、それもなくて水を飲んで空腹をごまかしたりしている子どもたちに、悲惨な話はしたくなかった」とつぶやいた。

 「今まで生きてこられたことが不思議なくらい」と話す一方で、「思い出がつらいことや苦しいことばかりだったら、生きていられない」とも。「三重の部隊にいた頃、空襲警報で避難した梨畑でまだ青い梨を勝手に食べて農家の人にひどく怒られたことや、学徒動員先の工場で手に入れた玄米をビール瓶に入れて棒で搗(つ)いて白米にし、飯ごうで炊いて食べたことなどもあった」

 「時代が違うからと言われてしまうけれど、あのころの苦労を少しでも分かってもらえたらうれしい」。

 【写説】当時の写真に目を通す山本さん=宇佐美の自宅

 【写説】身ぶりを交えて戦時中の出来事を語る鈴木さん=八幡野の自宅